家庭の事情でおばあちゃんちに預けられている小学生ぐらいの少年が、母を訪ねて、親戚のチンピラなおっさん「菊次郎」と旅をするという話です。
夏休みが終わりそうなとき、特に何をしたわけでなくとも、得も言われぬ寂しさに襲われることがあると思います。それは恐らく自分が「社会から与えられた猶予の時間(モラトリアム)」の中にいたことに自覚的になる瞬間だからだと思います。夏休みの終わり=成長への階段を一段上がること、社会の仕組みに再び組み込まれること。これはジュブナイルとしての暗黙の了解と言えるでしょう。
そういう定番としての夏休みの美しさに対し、「菊次郎の夏」がすばらしく思えるのは、主人公の少年がやぼったくて醜いところです。同情しちゃうような浮かばれない暗く太った少年。台詞もほとんどない。でもだからこそ、数少ない心のやりとりが涙が溢れるほど美しく感じます。
漫画スヌーピーの話の中に「配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどんな意味であれ」っていうのがあって、それはつまり人生のことそのものの例えなんですが、これはまさしくそういう話です。下流で浮かばれない人たちが、努力とは関係ない部分で、痛いほど身の程を知って、それでも涙を拭いて笑って歩き出す話。誰にも笑うことなんかできない普遍的な切実さが、そこには込められていると感じます。
背負う悲しみがひとつ増えるたびに、人は人に優しくなっていく。散りゆく桜や、夏の終わりの蝉の声や、踏みしめる落ち葉の音、街の色を奪う雪の白に触れるたび、年を取る意味を噛み締めるようになりました。