校長の思い出(米口実先生のこと)



 北島校長の「最終講義」に出席した。遅刻者が多かったのはいただけないが、それでも、教職員や若干のOBまたは保護者も含めて180人ほどが集まり、生徒から質問もいくつか出たのは一高の健在ぶりが感じられて嬉しかった。講義そのものについてはうまくコメントできない。補助的な資料として配られた半藤一利の『昭和史』の引用が、ありきたりながらも面白く、そこで指摘されていた太平洋戦争の反省が、全て今の日本どころか、今の一高にぴったりと通用する(と少なくとも私には思われる)ものだから、果たして校長がどのような意図でそれを持ちだしたのか、本当に数学を専門にしていても歴史の勉強は必要だ、などという程度の意図なのかを詮索しているうちに終わってしまった感じがする。

 ところで、校長の話に真剣に耳を傾ける一高生諸君を見ながら、ふと、自分が高校時代の校長について思い巡らせたので、何かのために書き留めておこう。

 私が高校1年生の時の校長は前田千鳥という人だった。「白髪痩躯」という形容がふさわしく、無表情で峻厳極まりない雰囲気を帯びていた。田舎の公立高校の校長と言うよりも、帝国大学教授もしくは総長といった風貌の人だった。入学式の式辞でどんな話をされたかは記憶にないが、その風貌に接しただけで、「ここは中学校とは全く違うすごいところのようだ」、と姿勢を正したのだから恐るべきものである。入学式から帰宅後、母も同様のことを言い、しきりに感心していた。最後まで、まったく雲の上の存在であった。

 2年生になる時校長が替わった。米口実という人である。最晩年の北原白秋に入門し、東大文学部で歌学を久松潜一に学び、東大短歌会を設立、白秋の死後は夫人の助言で木俣修に師事して短歌の腕を磨いた、という恐るべき経歴を持つ有名な歌人であった。ところが、その経歴にもかかわらず、非常に明るく気さくで親しみやすい人柄だった。この方が着任して1年近く経った頃、新聞部が校長と座談会をする際に誘われ、初めて直接お話をした。その明快な話にすっかり魅せられてしまい、退室する際、次は個人的にお邪魔してよいかと尋ねたところ、快諾して下さったので、その後、在学中のみならず、卒業後もしばしば校長室を訪ねては、忙しい中、幼い議論に長々とお付き合いいただいた。短歌の話なんかは全くしていない。簡単に言えば、世の中の見方、すなわち世の中のざまざまな現象の背後に、人間というもののどのような性質や考え方が見え隠れしているのか、というようなこと、いわば批評的精神のあり方と言うべきものを教えていただいたと思う。私の人生において直接接した人の中では、最も大きな影響を受けた10人の中に間違いなく入る。

 そんなことを思い出しつつ、本当に久しぶりで、書架から米口先生の著作を引っ張り出し、八幡平を往復する列車の中で読み直してみた。一冊は『短歌における日常性』(1979年、短歌新聞社)という評論集(主に藤原定家論)、もう一冊は『広葉かがやく』(1980年、同前)という私家集である。後者に関してはいまだにその価値を理解するには及ばなかったが、前者には改めて感銘を受けた。難解ではあるが、あの穏やかで明るく気さくな先生が、これほど真剣に人生に悩み、短歌の価値を思い詰めていたということに、今更ながらに衝撃を受けた。そしてこの方は、当時私が畏敬していたよりも更に深く、スケールの大きな教養人だったのだとも思った。当時の私のものと思える鉛筆による書き込みが散見された。背伸びをして、なんとか「米口実」を批判しようという若き日の私の姿が見えた。そのあまりの幼さに赤面した。先生は当時のそんな私に、手を抜くことなく物の見方考え方を教えてくださったのである。

 ご存命かどうか分からない。ある年、年賀状が居所不明で返送されてきてから連絡が絶えた。もちろん、仮にご存命だとしても、先生は今私がこのような形で先生を回顧していることなど知るよしもない。それでも、先生は私にある種の目標として生き続けている。人の影響とはそのようなものであり、ありがたいものである。さて、「最終講義」に出ていた一高生諸君は、30年後に北島校長のことをどのように思い出すのであろうか。