作文の能力、またはビルマ人ボランティア



 しばらくブログの更新をサボっていた。むやみに忙しかったというのに加えて、パソコンの調子が甚だ悪く、PCの画面に向って字を書こうという気になれなかったのである。故障というのではない。積年の使用の結果と言うべきか、とにかく重く、しかもフリーズしやすいのである。パソコンが思いのままに動かないから字が書けないなどというのは、「文明は人間を堕落させる」と日頃からブツブツ言っている私にあるまじき言葉なのであるが、確かに堕落もしくは退化しているのである。ちょっと長い文章は、パソコンなしでは書けない。いや、短い手紙でも、儀礼上自筆で書く手紙でも、一度パソコンで書いて推敲しないと紙に書けないというのは、コピーが残るから、というだけではない。我ながら情けない。

 「新潮日本文学アルバム」という文士の写真集『吉川英治』の巻、第86ページに、脱稿した『新平家物語』(←名作!!)の原稿を積み上げた横に、吉川英治の娘が立っているという衝撃的な写真がある。なぜ、本人ではなく娘かというと、写真を撮った時小学校2年生になっていたこの娘が生まれた時に、『新平家物語』は書き始められたからである。原稿の山は娘の頭をはるかに超えている。向こう側にあるドアの高さと比べてみるに、2mに近いであろう。娘の成長を上回るペースで原稿は書かれ、積み重ねられたということだ。『新平家物語』の後書きによると、吉川英治は書いた原稿を、奥さんに清書させていたらしいが、それはともかく、時代的な問題もあって当然のこと、彼は万年筆で原稿用紙に字を書いていた。これは驚くべきことである。もっとも、これぐらい長大は作品はそう多くないにしても、昔は誰でも当たり前のように手で字を書き、それでいて構成も表現も決して水準を落としてはいなかったのである。

 我が家のパソコン問題は何も解決していない。しかしながら、たったの1週間ほどとはいえ、私が最近になくこのブログを更新しないので、何かあったのではないかと心配のメールをくれる人など現れたとなると、PCが重いなどと、グチだけこぼして時を過ごしているわけにはいかない。


 さて、ゴールデンウィークとなった。実は、私は(も?)この連休を恐れていたのである。この連休は全国からボランティアが殺到する、ただでさえも渋滞がひどい被災地の道路は、ボランティアの車で糞詰まりになり、にっちもさっちも身動きできなくなるという噂が、あちこちでささやかれていた。石巻でも気仙沼でも、個人でのボランティアはご遠慮下さい、不要不急の人は来ないで下さい、という異例の呼び掛けが行われたりしていた。ボランティア自体は大変ありがたいし、その気持ちと行動には本当に頭が下がるのであるが、何しろ条件が整っていないのである。なかなか難しいところだ。ところが、杞憂と言うべきか、連休の石巻は思いのほか平静である。

 そんな中、昨日は後片づけボランティアとして、東京在住のビルマ人ご一行様94名が、大小4台のバスを連ねて多賀城石巻に来てくれていた。その中には、かつて何度もこのブログに登場したことのある、我がこよなく敬愛するビルマ人、ウ・ミイン・アウン氏も含まれていた。

 私は、実家で用事があって石巻を留守にしていたのであるが、石巻に戻るなり連絡を取り、彼らが作業をしている新館地区に会いに行った。ミ氏は、震災直後から私の家族の安否をひどく気に掛けてくれていた。3月の末には、無事を伝えることが出来ていたのだが、その後も、私達の生活のことを大変心配してくれて、何度となく電話をくれたりしていた。それが、直接会えたのだから、僅か20分ほどの対面とはいえ、お互いが感激したことは言うまでもない。

日帰りでやって来た彼らの石巻滞在時間は、わずか6時間。一歩離れて客観的に見てみると、なんだかロスが多いなぁという気もするけれど、大抵が政治的な事情で亡命または亡命同然の形で来日し、日本の片隅で質素な生活をしている彼らが、わざわざバスを仕立てて来てくれるという、その気持ちこそに価値がある。

 おそらく、彼らが活動していたごく限られた場所の人以外、誰も彼らの存在には気付いていない。私達家族が、いわば石巻、いや被災地を代表する形で彼らにお礼が言えたのはよかった。


補)ビルマ人の集団ボランティアは希少価値と見えて、TBSのカメラが同行していた。被災地に、家族で亡命ビルマ人に会いに来た日本人がいるというのは格好のテレビネタだったらしく、私の妻がつかまってしまった。5月4日(水)16:55〜TBS系(宮城ならTBC)「Nスタ」で放映されるらしい。