(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

最後の晩餐

食いしん坊が集まると、必ず出る定番ネタがある。

最後の晩餐には何食べる?

これはいつ話題にしても面白い。人それぞれの食に対する価値観が如実に出る。その人が優先していること、求めること、美味しさ・うまさの基準、あるいは幸せと感じる対象。こういうのが複合的に作用しましてね。いつも白熱するのですよ。
またみんな実にうまそうなものを繰り出してくる。何せ食いしん坊が揃いも揃って自分の最後を飾る一食を語るわけですからね。それぞれが自信のあるものを出してくる。どれもうまいに決まっているわけですよ。見なくても、食べなくてもうまい。……ああ、つばが止まらん。つばが湧き出でてやまん。
ちなみにオレの最後の晩餐候補はこちら。外食部門と、自炊部門に分けて。家で食べられるとは限らんので、分けてみました。まずは外食部門から。

うどん本陣 山田家のざるぶっかけ

「麺バカ一代」として、あちこちで麺を食べまくってきた日本屈指の麺好きタケルンバなわけですが、どうせ最後を外食で締めくくるのであれば、愛する麺で終えたい。麺で終えるのであれば、この山田家のざるぶっかけ以外考えられん。

正直言って、これよりうまい麺料理はいくらでもある。ラーメンやパスタ、ちゃんぽんに坦々麺。麺と具とスープのコラボレーションによって完成された麺料理はいくらでもある。
しかしだ、オレは麺が好きなのだ。具でもスープでもない。主役はあくまで麺。であるならば、オレを最も感動させたのが、この山田家のうどん。ざるぶっかけ。

このリンク先の画像はあったかい釜ぶっかけなのだけど、ざるぶっかけはこの冷たいバージョン。内容はほとんど一緒。どうだ、このシンプルさ。あるのは麺と薬味とダシ。以上。あくまで麺を食べる、うどんを楽しむための陣容。これでこそ麺だ。
白くつややかに光る麺。表面はぴっかぴかだ。水で締められた麺は、表面のぬめりを捨て去り、グミのような弾力を持って口内に侵入してくる。あまり噛まずに飲み込むと、ちゅるるんとのどを伝うように胃へと落ちていく。のどや食道にはりつくように、柔らかに刺激するように落ちていく。
また奥歯で噛んでやれば、麺が切れるギリギリまで反抗してくる。歯に対して抵抗し、歯茎に吸い付き、口内を刺激する。麺に加えた力をそのまま反発力にして口内で暴れる感じ。飲んで良し、噛んで良し。二重に楽しめる麺なのだ。
最後を飾るにふさわしい一食。麺バカ一代の締めは山田家だ。

焼き鮭・白飯・なめこ汁・ゴボウの味噌漬け

そして自炊部門がこれ。焼き鮭・白飯・なめこ汁・ゴボウの味噌漬け。お気づきかもしれんけども、朝ごはんの陣容。そう、締めは朝ごはんにしたい。最後の晩餐ということで、夕食のはずなのだけども、あえて朝ごはんを夜に食べて、人生最後の一食としたい。
ま、これは最後の晩餐としては邪道かもしれませんがね。晩餐なのに、内容が朝ごはんだから。でも、オレは朝ごはんが一番うまいと思っているのですよ。何の変哲もない、シンプルな朝ごはんが一番。であるならば、最後の晩餐でもそれで締めたいと。そう思っているのですよ。夜に朝メシを持ってきたいのです。
大きめの鮭を焼く。皮はパリッパリに。ご飯は炊きたてのものを、きちんと水分を飛ばしておく。おひつに移すと最高。なめこ汁は赤だし。豆腐となめこに、最後に三つ葉を加える。お漬物にはゴボウの味噌漬け。ゴボウの食感、土っぽい香りに味噌の香り。その塩っ気でご飯を食べる。なめこ汁を飲む。鮭の皮でご飯を巻いて食べる。なめこ汁を飲む。この繰り返しでひたすら食べたい。
何の変哲もない普通の一食だけども、普通だからいい。最後だからって特殊なことをしたくない。うまいと思うものをうまく食べる。ただそれでいい。余計な演出もいらない。豪華なものもいらない。普通のものを普通に食べる。このありがたみを感じて、最後の晩餐としないなあと。そう考えております。
皆さんの最後の晩餐は何がいいですか?

本日のYouTube 英語ができなくても面白い。

タケルンバはエンターテイメント主義者なので、暗い映画は見ないのです。悲しい気分はこりごりなのです。

そんなわけで、オレのベスト映画は誰が何と言おうと「裸の銃を持つ男」シリーズ。バカバカしさ全開で、マイナス感情が出てくるヒマがない本作こそ至高の作品。

お金は笑いに使いたい - (旧姓)タケルンバ卿日記

今回は「裸の銃を持つ男」を10分間にまとめましたシリーズ。字幕もない英語版なんだけど、英語が出来なくても十分面白い。


唯一の難点はO.J.シンプソン。あの事件があるだけに、心からは笑えねえ。
それ以外は全般頭が悪くていい感じ。頭の休憩にどうぞ。

知ってたらオサーンのネット千夜一夜

かれこれ10年以上ネットに触れているわけですが、影も形もなくなったモノや言葉ってあるよねえ。

モデム接続時の「ガガガガピーッ……ベボー」

もはや常時接続が常識であり、そもそも接続することがないわけですが、昔はダイヤルアップが普通でしてね。モデムの設定のところにプロバイダの電話番号を入力。その番号にモデムが電話をかけやがっていたわけですよ。そのときにプッシュ音の「パペパペプポペ」の後に如何にも「今接続してますよ」的な音がしてたんですよ。それが「ガガガガピーッ……ベボー」。
会社から設定するとゼロ発信だから、頭にゼロ1個足しとけとかねえ。設定に微妙なコツがあった。「ハイフン入れないほうがいいよ」とか「市外局番も入れた方が確実」とか。
あるいはノートパソコン派は、あちこちのアクセスポイントの電話番号一覧を持ち歩いていたり。出先では近場のアクセスポイントの電話番号に設定をいちいち変える。面倒くさい時代だねえ。

グレ電

灰色の公衆電話。グレーの公衆電話だから「グレ電」。モジュラージャックの穴がある公衆電話だったので、モバイル派の生命線でしたね。
無線LANなんかない時代でしたし、携帯電話が話にならん時代だった。速度も料金もねえ。今や電話からつなぐこともないし、まして公衆電話すら絶滅寸前。携帯電話で事足りるもんなあ。
猛者はグレ電下部のコンセントでパソコンを充電したりしてたなあ。大体グレ電の下にコンセントがあるのよね。そこから電気を拝借。……泥棒だぞ。

テレホーダイ

ダイアルアップ時代に咲いた仇花。
ダイアルアップだと、要はネット中は電話をかけている状態なのですよ。プロバイダに。で、それだと電話代がバカにならん。3分10円でも1時間200円。それに別途プロバイダへの料金がかかる。昔は結構ネット代が高かった。
そんな時代にみんなが加入していたのが「テレホーダイ」。これは一定料金を払うと、23時から翌朝8時まで使い放題というNTTのサービス。電話代を気にしなくていいってわけで、みんな加入してたねえ。
しかしみんなテレホーダイなので、23時になると回線が重い重い。ただでさえアナログ電話回線。最速56Kbpsの時代。そこが込み合うと絶望的なスピード。画像が出ない。読み込まない。
「あ、テレホタイムになるから重くなるぞ」みたいな掲示板・チャットのやりとりも昔はよくあったねえ。「テレホタイム」という言葉も懐かしい。
昔は画像やFlashを使ったサイトが少なく、テキスト系が流行ったのはこういうところが理由でもあるよね。軽いサイトじゃねえと見れないんだもの。いつまでたっても画像が「×」のまま。

画像読み込みは「ヒントでピント

仮に画像を読み込んでもサッとは読み込んでくれない。何せ普通のアナログ電話回線なので。マックス56Kbpsなんで。
で、大きめのエロ画像を見ていると、なかなか表示されやがらないんですよ。画像の上からちょっとずつ表示されるタイプだと、丁度おいしいところの手前で読み込みが止まりやがる。「神様、もう少しだけ」ですよ。あと1センチ読み込んでくれればヒデキ感激ですよ。「秒速5センチメートル」で読み込んで欲しいのですよ。速やかにエロ画像フルオープン。それはそういう秒速じゃねえ。
あるいは全体がぼやけて、次第に焦点が絞られてくるヤツね。あのタイプの画像も悩ましい。読み込みが遅いから、なかなかわからん。イライラする。まるで「ヒントでピント」ですよ。パート4はテクニカル問題ですよ。女性がどんな格好であるかをお答え下さい。「全裸!」「正解!」
誰しも浅井慎平並みの正解率を誇るべく努力したものである。あの頃の野郎どもは心眼を普通に身につけていたものである。

GMask

この単語でピンと来たヤツは同志と呼ばざるを得ない。モザイクを消すソフト。
今でこそGoogleとかのイメージ検索とかであられもない画像を山のように手に入れることができるわけですが、当時はそんな利便性がなかったわけで。何せGoogle自体がないし、Yahoo!ディレクトリ型検索しか対応していない時代。サーチエンジンも不便だったのよ。
しかしエロの冒険者は、大海の中からエロ大陸を探し出すもんなんですよ。そういう本能を持っているんですよ。しかしそこにモザイクという壁が冒険者を阻むわけですよ。そこでGMaskの登場。縦→横→ネガポジ反転。……織田裕二が……きたぁーー!
牧歌的な時代ですね。今やアダルトフィルターをオフにするだけだもの。
パソコンを買って、最初の方に入れるソフトだったなあ。「一太郎」「Internet Explorer」「Lhasa」その次ぐらいには来るね。モザイクを消すためにだけ使うソフトなんだけど。
今や一太郎も使わなくなったなあ。罫線をひきやすいし、表示がシンプルだし、使いやすいので、「Word」より好きだったんだけどねえ。「Lotus 1-2-3」とかさあ。何せ「Windows 3.1」とかの頃は「一太郎」「Lotus 1-2-3」の組み合わせが一般的だった気がするんだけどもね。いやはや、時代は変わるもんですよ。
ま、結局は、昔も今もエロが動機というところが我ながら悲しいところではあるな。少しは年をとれ。 >オレ

たかがシャーペン、されどシャーペン

小学校には何かとローカルルールがある。例えば「シャープペンシル使用禁止」。小学校ではシャーペンを使いことはまかりならぬと。小学生の分際でシャーペンは早いと。中学生になってから来やがれって話で、「ロケット鉛筆禁止」とか「レインボー鉛筆自重」とか、何かと筆記具制限があった。要するに「鉛筆以外使ってはならぬ」という規制。
でも「使うな」と言われると使いたくなるのが人情。鉛筆削りは面倒だし、何よりシャーペンを使うのがスタイリッシュと勘違いするのが小学生であり、高学年の勘違い。そういう葛藤の中で中学生になる前のひとときを過ごすわけである。
で、そういう経験をした我々世代も親となり、今度は我が子を小学校に送り出すことになる。そこで親として再び「シャーペン禁止」に触れることになる。「お子さんにはシャーペンを使わせないでください」的なお触れ。これに対し、自分が子どもだったときに反発していた向きは、親になってもやっぱり反発する。「へ? 別にいいんじゃないの?」と。
「どう思う?」
たまたま酒席で4月から小学生になる子を持つ知り合いに聞かれた。
「別に何使ってもいいじゃんか。どうせ大人になったらシャーペン使うわけだし。今どき鉛筆使わねえだろ」
うむむ。それはそうだな。何使ってもいいよな。自由社会だし、オレも自由主義者だからよくわかるよ。合理的じゃない話だしなあ。シャーペンのほうが便利だし、鉛筆を強制する理由に乏しい。でもだなあ……。

だが、それがいい

理不尽だからいい

いつもの自由主義的姿勢から、相手はすっかり「そうだよなあ。何使ってもいいよなあ」的な積極的賛意を期待していたようなのだけども、オレはそこまでは思わない。もちろん自由主義者だから「勝手にさせてくれよ」と思ってはいるんだけども、鉛筆を強制することにも意義があると思うんだよね。
「え? 理不尽じゃない?」
こうも言われたんだけどさ。確かに理不尽。でも理不尽だからいい。根拠や理由が明確じゃないからいい。それなのに強制するからいい。そういう側面もあると思うわけですよ。理不尽性にこそ意義がある。
世の中は理不尽ですからね。必ずしも合理性でまわっているとは限らない。よくわからんルールがあるし、思い通りにならないことが多い。それに対する対応訓練になりうるといいますかね。「思い通りにはならないんだぞ」と。「理があってもダメなものはダメなんだぞ」と。それを肌感覚で教え込む効果はあるのかなあと。
シャーペン規制反対派が考える、シャーペン規制の問題点そのものが、この規制のメリット。理がない、合理性がない、押し付け、強制、めんどうくさい、手間がかかる……だが、それがいい。それを小学生のうちに教え込むことに意義はあるね。理不尽だからこそいい。

不便だからいい

それに不便だからいいんだよね。あえて不便な思いをさせるところに意義がある。鉛筆は削らないと書けないわけですが、そういう不便なところがあるから、シャーペンのありがたみがわかるといいますかね。いきなりシャーペンじゃ、このありがたみがわからない。6年間みっちり面倒くさい思いをしてもらうことで、シャーペンに対するありがたみを感じてもらうと。テクノロジーイノベーション、アイディアに対するありがたみとかね。
筆記具にしても、本当は歴史がありますからね。
最初は黒鉛をじかに持って書いていた。手は思いっきり汚れた。
鉛筆が発明された。鉛筆ができたことで、手を汚さずにものを書けるようになった。
シャーペンが発明された。シャーペンができたことで、鉛筆削りの手間もなく書けるようになった。
単純に考えてもこういう経緯があるわけでねえ。そういう筆記具の歴史に思いを馳せ、技術の進化に対する感謝の思いを持ってもらう。同時に利便性を高めることが、如何に社会に貢献するのかを知ってもらう。そういう具体的な経験になるんじゃないかなあ。

段階的だからいい

極端な話、オレは最初は鉛筆削りさえ使わせない方法もアリかなあと。ナイフ1本与えて「これで削れや」と。それでいいとさえ思ってますよ。シャーペン以前の問題として。
だって、元々はそういうもんだからね。昔は鉛筆削りもなかった。ナイフで鉛筆を削っていた。その後に鉛筆削りが登場した。電動のものもできた。そういう流れ。であるならば、最初のナイフで削っていたところから体験させてもいいんじゃねえかと。それはそれで貴重な経験じゃないか? こう思っているわけです。
で、こういうことを書くと「危ない」とか「ケガしたらどうすんだ」という反論をいただくかと思いますが、それに対しても前田慶次ですよ。
だが、それがいい
危ないからいいんです。ケガするからいいんです。早いところ危ない経験させたほうがいいんですよ。危ないと思うから、刃物の扱いが慎重になる。ケガしないように気をつける。危ないからこそメリット足りうる。ケガするかもしれないからダメなのではなくて、ケガするかもしれないからいい。そういう考え方もある。
ただ、大ケガをしないようにコントロールする必要はありますけどね。最初のうちは目の前でやらせる。あまり大きい刃物を与えない。手本をきちんと見せてやる。こうしたことは必要だけど、少々のケガはさせても構わないのではないか。痛い思いをすれば、痛くないように次はするもんだし。ちょっとの傷ならすぐ元通りになるわけで問題ない。元通りにならないケガをさせないようにする必要はあるし、それを管理する役目が親にあるとは思うけど、元通りになるならケガしてもOK。貴重な経験ですよ。まさに血となり骨となる経験。

  • 小1 親がカッターで削ってやる。目の前で削ってやる。
  • 小2 子どもにカッターを与えて、子どもにやらせる。目の前でやらせる。
  • 小3 自分で勝手にやらせる。一人でやらせる。
  • 小4 小型の鉛筆削りを与える。
  • 小5 大き目の鉛筆削りを与える。学校の教室に置いてあるような大き目のヤツ。
  • 小6 電動の鉛筆削りを与える。
  • 中1 筆記具規制撤廃。何使っても良し

こんな感じで段階的にやらせてもいいのでは。こうすることで鉛筆削りのありがたみがわかりますしねえ。道具の進化の歴史というか。これはいきなりシャーペンじゃわからんし。こういう風な教育効果を狙ってシャーペンを禁止するのは一定の意義がありますよ。
4月になり、新年度になって「新小学生」が誕生するわけですが、同時に「新小学生の親」も誕生するわけでもあります。そうなると、こうしたシャーペン規制問題にも親として遭遇する機会も出てくる。そしてこういう件は、規制側にも自由側にも理がある。あとは親としての哲学が試される話。たかがシャーペン、されどシャーペンでありますよ。
あなたはどうお考えですか?