ダサイのはオーケストラ

昨日のブログで子供にクラシック音楽が受けない話を書いたが、これは実際には但し書き付きと言わねばならない。正確にはオーケストラ音楽が受けないのだ。


末の息子は赤ん坊の頃から大の音楽好きでピアノを弾く。大好きなのはEXILECHEMISTRYなどのJ-POPだが、ピアノであれば、小さい頃から習ってきたこともありクラシックにもそれ相応に敏感に反応する。長男も四六時中弟のピアノを聴かされてきた学習効果ということか、ピアノ音楽はそれほど違和感なく受け止める。二人ともグールドのモーツァルトポリーニショパン練習曲に対し「ヤバッ」と、実に正しい評価をする。


ところが、これに対してオーケストラはひたすらダサイ音楽に聞こえるようである。今年、個人的には知り合いが演奏する第九を3回聴いた「第九の年」だったのだが、叔母が歌った演奏会に長男を誘ってみたら、「誰に向かって言ってるかわかってんの?」と答えが返ってきた。ピアノをやっている次男もオケにはまったく興味を示さない。


実際、そうした反応は分からないではない。たぶん彼らの感性は正しいのである。もし、僕の神経がほんとうに繊細だったならば、100人の人間がえんやとっとと合奏する音楽が心の機微に触れてくれる可能性はきわめて小さいはずだ。クラシック、ポップスの別なく、歌やピアノで鍛えられた人にとって、オーケストラ音楽が耐えられないほど鈍感なジャンルであったとしても不思議ではない。皆が心を一つにして、精妙な合奏を実現した時に初めて届くものがあるのがオーケストラ音楽。大時代的で不自由な演奏形態である。ヤバイ音楽形態なのだ。


今日、久しぶりにお会いしたBさんは、ある有名オケで弾いている従兄弟の方がおり、ある若手の有望指揮者とも親しいすれっからしのオケ聴き人だが、この人が暮れに聴いた某一流オケの第九はむちゃくちゃひどかったそうな。あまりにやる気がないのが見え見えで、呆れて帰ってきたBさんに聞こえてきた裏情報によれば、どういう経緯かは知らないが、このオケを振った若手指揮者に対して練習中にプレイヤーが怒鳴りだし、おまえの言うことなど聞けないと啖呵を切る仕儀と相成ったとのこと。そんな内輪もめを抱えてひどい演奏を聴かされる聴衆はたまったものではない。


こんなのは極端な例ではあるけれど、構造的に常に存在する危険である。オーケストラには様々な原因によって音楽が音楽ではなくなる危険が満載されている。10人以上の人が同じ旋律を弾いて、繊細さを担保するなんて、だいたいできる方が不思議なのだ。


そうであるが故に、何度かに一度、下手をしたら何年かに一度、すごい演奏にあたった時は感激する。それも真実。「あた〜り〜」てなもんである。その瞬間に出会いたいがために多大の時間と費用を一流のオーケストラにかけるのもありだが、すれっからしは10回に1度しか満足できなくなるのが必定で、そうだとするとオケなんか聴かない方がいいという考え方にも傾く。みんなで力を合わせて、というところで会社組織を思い出したりもする。オケの人にとってはそこは会社そのものだし。


というわけで楽しいのはアマオケである。先日ご報告したとおり、港北区民交響楽団の第九はなかなか素敵だった。トランペットを吹いた友人のかわい君が教えてくれた合唱団の団長さんのブログからは20周年記念演奏会を成功させた皆さんの感動がひしひしと伝わってくる。こういう時間を聴衆として共有できるのがアマオケだ。

昨夜の オーケストラ・港北区交響楽団 の打ち上げ会場では、早速本番のビデオが流れる。最初は静かに(反省しながら?)聴いていたが、そのうちすごい盛り上がり。特に合唱つきの第4楽章は繰り返し何回も流れ、そのたびになりやまぬ拍手。オケ団員なのに声たからかに一緒に歌う人、指揮する人、踊る人、「ブラボー」だった。第九公演はオケの念願だったそうで団員は一気に上り坂。「また2年後に一緒にどうですか?」「いや、恒例にしよう」と興奮気味。どうやら《第九》には不思議な魔力があるらしい。
(Kantele-Suomito-Fuga)


かような理由で、(ほんとは自分で弾くのが一番楽しいのだろうけれど、)クラシックを聴くなら器楽・室内楽か、アマオケをお勧めする次第です。Bさんからは「そんなこと言わずに、また一緒に行きましょう」と誘われるだろうけど。