川口マーン惠美著『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』

川口マーン惠美という人が書いた『証言・フルトヴェングラーカラヤンか』という本を読んだ。

この本は、ドイツ在住の著者が、フルトヴェングラーカラヤンの両方、あるいはカラヤンの指揮のもとで演奏をしたことがあるベルリン・フィルのOB11人を著者が2007年から2008年にかけて訪ねて歩き、二人ににまつわる思い出を語ってもらい、それらをとりまとめたものである。二人については複数回のインタビューを行っているが、ともかくそれぞれのインタビューがそれぞれ一つの章として構成されている。「フルトヴェングラーカラヤンは、彼らと音楽を実際につくった人々にとって、どのような存在だったのだろう」という好奇心を基に、平易な文体とすっきりした構成でつくられた選書である。

これが予想外に面白かった。予想外に、というのはつまり、次のような意味だ。

『証言・フルトヴェングラーカラヤンか』などという本を読む奴は、ほぼ例外なくフルトヴェングラー好きに決まっている(と僕は思う)。いや、中には物好きなカラヤン・ファンもいるかもしれないので、「どちらかに決まっている」と言い直しておくとしようか。で、そうした連中の多くは、どうせオタクだから、彼らについて書かれた書籍だってきちんと何冊かは読んでいるに違いない(と僕は思う)。フルトヴェングラーカラヤンについては日本のライターもいろいろと書いているが、ドイツを中心とした現地の著作者がさまざまな著作をものし、それらが日本語に翻訳されている。他の音楽家について書かれたものを読んでも、この20世紀でもっとも有名な二人の指揮者に関する記述は至る所に出てくる。
そこで思ったのである。いまさら、日本人が書いたインタビューを読んでも、面白い情報、新しい情報、耳がそばだち、目が引きつけられるような情報はないだろうと。『証言・フルトヴェングラーカラヤンか』という題名自体、なんとダサい。どんな本なのかを伝えるという意味では分り易くはあるが、『フルトヴェングラーか、カラヤンか』という本だって存在する上で、このタイトルだ。

という気楽さで、暇つぶしにお気楽フルトヴェングラー本でも読むかと手に取った本だったが、ここに紹介されている百戦錬磨の老音楽家たちの言葉は実に面白く、かつ、まるで山で飲む清水のように心にしみた。これはまったく予想外だった。ある者はカラヤンを正面から批判し、ある者はカラヤンを全面的に肯定する。ある者は、二人の音楽に異なるところはないともいう。まるで芥川龍之介の『藪の中』のような話だが、誰も嘘を語っているわけではない。主観とはそういうものなのだと思わされたし、真実はけっきょく関係性の中にあるのだとも考えさせられたりもした。

印象深い話はいくつもある。たとえば「あなたはカラヤンが録音した3回のベートーヴェン交響曲全集の中で、どれが一番よいと思うか」という質問を著者は異なる相手に向かって何度かしているのだが、それに対する答えが、半で押したように「どれがいいということは言えない」「どれも違わない」という類であった点だ。96歳のハンス・バスティアーン氏はこう語っている。

「比較はできないのです。音楽というのは、演奏者にとって、いつもその瞬間、新しいものです。一度目の録音のときは、それが一番新しく素晴らしいもので、二度目には、それが一番新しく素晴らしい。それをあとから較べることには意味がありません。音楽は、恒久的なものではなく、常に変化をしていくものです。だから比較はできない」

著者のインタビューは素晴らしい。その場の雰囲気や彼女自身の気づき、心のそよぎを言葉にする技術は瞠目ものだと思った。これは日本人の感性、女性らしい繊細さ、堪能なドイツ語の能力、それを日本語にする力があってできた芸当で、一読した際の文章の軽さに騙されていはいけない。この方はドイツの音楽大学でピアノを勉強した方でもある。それらすべてがあって初めて可能になった本である。

フルトヴェングラー」、「カラヤン」というキーワードに反応する人が基本的な読者層だろうから、この本を手に取る読者は数限られているのではないかと思われる。しかし、ここで語られている内容は、本当は、人生、名声、老い、豊かさ、人間性などあらゆる人々にとって普遍的なテーマに届いている。もっと多くの人々に読まれてよい本だと思った。


証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)

証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)