啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

 

2017-03-24

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <3>

啄木文学散歩・もくじ


3 啄木住居跡・函館の啄木年譜


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石川啄木居住地跡の説明板」


同人たちとの気の置けない交流は、これすべて青柳町でなされたのである。現在の函館公園正面入口前の道路(今は公園通りとも啄木通りとも呼ばれる)を斜めに挟んでの互いの場所である。「苜蓿社」の公園通り向かいに白村が住み、公園正面入口前の道路を電車道路に下る一本目の通りを左に折れてすぐに、白鯨の家があった。(『啄木の函館』竹原三哉著)





石川啄木居住地跡


「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」

「わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」


薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。

岩手県渋民村(現盛岡市)で辛酸の生活を味わった啄木は明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。

啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して、妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹は、そのまま小樽の義兄のもとへ向かった。)啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」(ボクシュクシャ)の同人達であった。

啄木の日記に「四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」(ベニマゴヤシ)は、後に啄木が主筆となり、一切の編集責任を任されることになるが、その苜蓿社は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。

7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。

職場を失った啄木は、9月13日新たな夢を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。

函館市の説明板)







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「このあたりが啄木の居住地」


◯ 函館の啄木年譜

  132日間の函館


1907年 明治40年 啄木 21歳  

  • 5月4日 節子は盛岡の実家、母親は渋民と一家離散し、啄木は妹光子とともに渋民を出る。日記に「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ケ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。」と記した。
  • 5月5日 函館着。苜蓿社同人たちの厚意で、青柳町45番地の松岡蕗堂の下宿先である和賀市蔵(峰雪)方に寄寓する。同行した妹光子は小樽駅長である義兄山本千三郎・トラ夫妻の許に赴く。啄木は雑誌『紅苜蓿』(「べにまごやし」は、啄木の渡道後、「れつどくろばあ」に名称変更)の編集に携わる。
  • 5月11日〜月末 苜蓿社同人の沢田天峰(信太郎)の世話で、函館商業会議所臨時雇として、商業会議所議員選挙有権者台帳作成の仕事を行う。
  • 6月11日 苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員(月給12円)となる。同校は明治15年4月9日の創立で職員は15名、児童は1,100名余。同僚の訓導橘智恵子(戸籍名チエ)等を知る。
  • 7月7日 妻節子が長女京子とともに来道。この日、青柳町18番地ラの4号に新居を構える。1週間後にムの8号に移る。翌日、宮崎郁雨宛に最初の無心をするハガキを書き送る。

啄木日記

 函館の夏(九月六日記)

七月七日

節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、友人八名の助力によりて兎も角も家らしく取片づけたり、予は復一家の主人となれり、

  • 7月10日 『紅苜蓿』に小説、短歌、文芸時評を発表。
  • 7月24日 宮崎郁雨、並木翡翠、吉野白村、岩崎白鯨、西村彦次郎と大島流人送別の写真を撮る。
  • 7月26日 苜蓿社主宰者であった大島流人、靖和女学校教師の職を辞して故郷日高国下下方村に帰る。
  • 8月2日〜4日 野辺地に滞在していた母カツを迎えに行き、函館に連れ帰る。続いて脚気転地のため函館に来た光子を加え、5人となる。

啄木日記

 函館の夏(九月六日記)

(8月4日)ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓の東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく賑かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人

家庭は賑はしくなりたけれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、

  • 8月18日 小学校在職のまま、宮崎郁雨の紹介で函館日日新聞社遊軍記者となる。「月曜文壇」、「日日歌壇」を起こし、評論「辻講釈」を連載する。
  • 8月25日 函館大火。市内の大半を焼く。啄木一家は焼失を免れたが、弥生尋常小学校、函館日日新聞社とも焼失し、職を失う。啄木の小説「面影」を含む『紅苜蓿』8号の原稿も焼失した。
  • 8月30日 北海道庁から救護活動のために来函中の、苜蓿社同人の大島経男の友人で、『紅苜蓿』寄稿家でもあった向井永太郎(夷希微)に就職の斡旋を依頼する。
  • 9月1日 学校の決定で、生徒の罹災状況把握のため、生徒招集のポスター貼りをする。
  • 9月8日 札幌の北門新報社に校正係の口ありとの連絡が来る。
  • 9月11日 弥生尋常小学校に退職願提出。
  • 9月13日 向井永太郎の斡旋と小国露堂(善平)の厚意により、北門新報社(第三次)校正係となるため札幌に向かう。この日、同人仲間の吉野白村の次男が誕生し、啄木が提案した三つの名前から選ばれて「浩介」と名付けられる。母カツが産手伝いに行く。

 参考文献

石川啄木事典』国際啄木学会編 

石川啄木全集』第6巻 筑摩書房

石川啄木全集』第8巻 筑摩書房

『啄木の函館』竹原三哉著 紅書房







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「啄木はここにも」

タイトルは「ぢっと手を見る」

だから啄木鳥。





(つづく)



2017-03-23

[][] 「石川啄木・現在へのまなざし」2017啄木祭 5/6

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[カンヒザクラ]


新日本歌人協会

 「2017啄木祭」

  • 日時 2017年5月6日(土)13:00 開場 13:30 開会
  • 会場 南大塚ホール(東京都豊島区南大塚2-36-1)
  • 講演 「石川啄木・現在へのまなざし―啄木没後105年のいま―」
    • 講師 碓田のぼる(歌人 石川啄木研究家 元新日本歌人協会代表幹事 現在全国幹事。民主主義文学会会員。国際啄木学会会員)
  • 講談 「啄木と足尾鉱毒事件」 甲斐織淳
  • 会費 1200円 (前売会費 1000円)
  • アクセス 南大塚ホール(東京都豊島区南大塚2-36-1)(JR山手線大塚駅南口下車 徒歩5分、都電荒川線大塚駅前」駅下車 徒歩5分、地下鉄丸の内線新大塚駅下車 徒歩8分)

  • 主催  新日本歌人協会

記事


[][] “子規と啄木の現代性を考える” 三郷啄木祭 4/13

新日本歌人協会

 「2017 三郷啄木祭」

  • 日時 2017年4月13日(木)10:00〜12:00
  • 場所 三郷市文化会館(埼玉県三郷市早稲田5-4-1)
  • 講演 現代短歌の幕開けー子規と啄木の現代性を考える 
    • 講師 碓田のぼる(歌人 石川啄木研究家 元新日本歌人協会代表幹事 現在全国幹事。民主主義文学会会員。国際啄木学会会員) 
  • 主催  新日本歌人協会


[] 盛岡初の道の駅「もりおか啄木の里」整備方針

コンセプトはもりおか啄木の里 渋民に21年度供用目指す

  • 盛岡市渋民に市が整備を予定する道の駅の第3回道の駅整備方針検討会が22日、玉山総合支所で開かれ、整備に向けた基本計画中間報告が示された。
  • コンセプトは「石川啄木が愛した盛岡・玉山を今に伝える道の駅『もりおか啄木の里』」とした。完成すると盛岡初の道の駅となり、道路利用者や地域住民の利便性確保の他、岩手山の眺望や石川啄木ゆかりの地を生かした観光・産業振興を図る拠点として期待される。

(2017-03-23 盛岡タイムス)

記事


2017-03-22

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <2>

啄木文学散歩・もくじ


2 啄木小公園

この公園は、哀愁テーマパーク「土方・啄木浪漫館」に隣接している。



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大森浜から見る立待岬


尖端の低くなったところに啄木一族の墓がある。






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「あずまやの屋根の右端下に啄木像」


岬の右端の一段高いところが函館山。







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大森浜の啄木像」

札幌出身の彫刻家本郷新氏は、函館時代の啄木が漂泊の悲しみをまぎらすために散策した大森浜の海岸になんとか啄木像を建てたいと念願していた。これを友人である函館棒二森屋百貨店勤務の本山正名氏にはかったところ、本山氏はさっそく社長の渡辺熊四郎氏に相談し、あたたかい賛助の手をさしのべることになった。

こうして渡辺氏を会長に石川啄木記念像建設期成会が結成され、これを知った函館市大森浜の砂山にほど近い市有地を提供してここを啄木小公園とした。本郷氏制作の啄木像はカスリにハカマのいでたちで左手に処女詩集『あこがれ』を持ち、砂に座った姿をあらわしている。台座には本郷氏の要請で高橋錦吉氏が明朝活字体で書いた〈潮かをる〉の歌が、銅板に陽刻されてはめ込まれた。

除幕式は昭和33年10月18日、本郷氏や啄木の女婿石川正雄氏、それに宮崎郁雨氏らが参列し、降りしきる雨の中で挙行された。

(『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著)






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「彫刻家本郷新氏制作」の啄木座像


   潮かをる北の浜辺の

   砂山のかの浜薔薇よ

   今年も咲けるや

          [浜薔薇(はまなす)]






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「捧 啄木  西条八十


昭和33年、西条八十が来函の際作る。

   眠れる君に捧ぐべき

   矢車草の花もなく

   ひとり佇む五月寒

   立待岬の波静か

   おもひ出の砂ただ光る


     「捧 啄木  西条八十


その詩はお墓に眠る啄木に捧げられたもので、黒い石板に七五調の五行詩として、西条八十の自筆で刻まれている。(『啄木の函館』竹原三哉著 紅書房)






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「丸刈り頭をうつむかせ、物思いに沈む」


啄木の座像は、細長い敷地の函館山側寄りに、山に背を向けて据えられている。彼の唯一の詩集『あこがれ』を膝に左手で押さえ、丸刈り頭をややうつむかせ、下駄履きの足元に視線を落とすかのようにして、物思いに沈んでいる。夜となく昼となく、半世紀もの長い間、大森浜に寄せる浪が「ドゝゝと砕けて来て、ザーツと砂の上を這い上る」音を聞きながら、かつ、「荒々しい北国の空気に漂ふ強い海の香ひ」をいっぱいに吸ってきたのである。

(『啄木の函館』竹原三哉著 紅書房)







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「はまなすの丘」


  潮かをる北の浜辺の

  砂山のかの浜薔薇よ

  今年も咲けるや

           啄木


啄木という不世出の歌人がいた。ハマナスの咲く砂丘があった明治の頃、砂丘は三十二万㎡(十一万坪)海抜四十mあった。

この一帯は大森町、高盛町、砂山町に分けられ、砂丘の一番盛り上がっている所が砂山町で、この一帯はスラム街であった。昭和に入り住民はスラム街のイメージを嫌い、昭和十三年に日乃出町と改めたのである。それは、海と砂浜から昇る朝日の美しさからか、それとも生活の豊かさに希望をもとめての日乃出だったのか、今ではわからない。自生のハマナスが咲き乱れ、幾多の時代が変わり、人々も通り過ぎていった。啄木もその一人である。






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「ブック型の碑」


「一握の砂」啄木の第一 歌集(東雲堂書店)。

明治43年発刊。序文は藪野椋十(渋川玄耳)。


この碑の裏に歌が刻まれている。

   砂山の砂に腹這ひ

   初恋の

   いたみを遠くおもひ出づる日









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「詩集「あこがれ」」


明治38年に刊行された処女詩集「あこがれ」(小田島書房)。

啄木19歳。


上田敏の序詩、与謝野鉄幹の跋文。








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「予は此日より夕方必ず海にゆく事とせり」


明治40年 啄木日記


九月五日

夢はなつかし。夢みてありし時代を思へば涙流る。然れども人生は明らかなる事実なり。八月の日に遮りもなく照らされたる無限の海なり。

予は今夢を見ず。予が見る夢は覚めたる夢なり。

予は客観す。予自身をすらも時々客観する事あり。かくて予のために最も「興味ある事実」は人間なり。生存なり。

人間は皆活けるなり。彼等皆恋す。その恋或は成り或いは破る。破れたる恋も成りたる恋も等しく恋なり。人間の恋なり。恋に破れたる者は軈て第二の恋を得るなり。外目に恋を得たる人も時に恋を失へる人たる事あり。

予は此日より夕方必ず海にゆく事とせり。


九月六日

かはたれ時、砂浜に立ちて波を見る。磯に砕くるは波にあらず、仄白き声なり。仄白くして力ある、寂しくして偉いなる、海の声は絶間もなく打寄せて我が足下に砕け又砕けたり。我は我を忘れぬ。

(『石川啄木全集 第六巻』筑摩書房 1986)






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津軽海峡と啄木座像」


シルエットになると、だまし絵にみえる。

啄木は光る海を背にしているようにも、光の方向に顔を向けているようにも思える。





(つづく)

 


2017-03-21

[] 啄木にとって函館が「心のふるさと」になった理由

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[啄木一族墓 函館市立待岬]


夭折の天才歌人・石川啄木にとって函館が「心のふるさと」になった3つの理由

    文/鈴木拓也

  • 26歳の若さで現世に暇を告げた、歌人・石川啄木。その短く幸薄い生涯のなかで、数少ない幸福感と充実感に包まれていた時期は、じつは函館にいた4か月間であった。
  • 啄木は、生前友人に宛てた手紙で「僕は死ぬときは函館で死にたい」と書いていた。彼にとっての心のふるさとは、故郷の渋民村(今の盛岡市)でも東京でもなく、たった4か月過ごした函館であったのだ。なぜそれほどまでに、啄木は函館を愛したのだろうか? 今回はその3つの理由についてご紹介しよう。

1 短歌の同人たちとの楽しい交流の日々があった──明治40年、渋民村の小学校の代用教員として勤務していた啄木は、ストライキ扇動で職を捨てて故郷を離れざるを得なくなった。5月5日、海路函館に到着した21歳の啄木は、当時北海道唯一の同人文芸誌『紅苜蓿』(べにまごやし)を発行する苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人らにあたたかく迎えられた。函館在住の同人たちにとって、歌人・啄木の来函は「鶏小屋に孔雀が舞い込むようなもの」であったという。

2 生涯の親友と出会えた──引っ越しが済んで早々に啄木は、同年輩で苜蓿社の同人の中でももっとも気の合う仲となっていた宮崎郁雨に「兎に角一本立になって懐中の淋しきは心も寂しくなる所以に御座候」云々と書いた無心状を送っている。その後、啄木は何度となく借金依頼を重ねることになったが、郁雨はほとんどいつも躊躇なく啄木に金銭を貸した。

3 ある女性への恋心が忘れられなかったーー6月、啄木は函館の弥生尋常小学校の代用教員としての職を得た。同僚の橘智恵子という教員については「真直に立てる鹿ノ子百合(かのこゆり)なるべし」と賛美した。


  • 函館には、いまも啄木ゆかりの地が点在している。薄幸の歌人の短い人生のなかで、幸福感に満ちて輝いていた貴重な一時期に想いを馳せつつ、巡ってみてはどうだろう。

(2017-03-18 サライ)

記事


[] 盛岡駅から徒歩圏内で行ける、石川啄木スポット

文学フリマ岩手事務局通信

 岩手盛岡観光スポット紹介(啄木編)

今回は、盛岡駅から徒歩圏内で行ける、石川啄木スポットを写真付きでお届けします!

    • まずは盛岡駅前広場。広場の片隅に啄木歌碑。
    • 啄木であい道。道の両脇に、結構な数の歌碑が設置されています。
    • 大通りにも啄木が!「北風に立つ少年啄木像」
    • 盛岡城跡の一角にも啄木の歌碑
    • 盛岡天満宮の啄木の歌碑

他に大通り周辺には啄木新婚の家やもりおか啄木・賢治青春館といった施設、またバスで30分ほど離れますが「石川啄木記念館」という名前の通りの記念館も存在しており、様々な資料を通じて啄木の姿を知ることができます。


(2017-03-18 岩手盛岡観光スポット紹介(啄木編))

記事


2017-03-19

[] 早春の甲子園 不来方高校不来方のお城の草に寝ころびて 石川啄木

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[オキザリス]


「河北春秋」[河北新報]

  • その珍しい姓に遠い夏の日を思い出す。昭和44(1969)年の夏の全国高校野球大会決勝で松山商と引き分け再試合の名勝負を演じた三沢高校太田幸司投手とバッテリーを組んでいた捕手が小比類巻(こひるいまき)という姓だった。
  • ことしの選抜大会に初出場する不来方(こずかた)(岩手)の主将は小比類巻圭汰投手。エースで4番。選手10人のチームを引っ張る大黒柱だ。話題には事欠かない。内、外野、投手もこなす唯一の控え選手が実は一番、鍵を握る。甲子園練習は、女子マネジャー3人もヘルメットをかぶって手伝った。開会式では声楽のコンクールで全国1位の竹内菜緒さんが国歌を独唱するという。
  • 不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心 石川啄木>。早春の甲子園の空の下、無心で悔いのないプレーを。

(2017-03-18 河北新報

記事


[] 魚島中卒業「十五の心を忘れず、未来に羽ばたいてください」

「卒業式」[毎日新聞]

 1人だけで 魚島中の竹内さん、後輩7人に送られ /愛媛

  • 愛媛県内の多くの公立中学校で卒業式があった16日、上島町魚島の町立魚島中では1人だけの卒業生、竹内愛美和(えみか)さんの旅立ちを魚島小、中の在校生7人が祝った。
  • 式辞で魚島小、中の清水伸校長は石川啄木の短歌「不来方(こずかた)のお城の草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心」を掲げ、「ここで歌われる『空』は単なる空ではありません。未来そのものです。自分の人生が夢と希望にあふれていることをしっかり願っているのです」と竹内さんを励ました。
  • 竹内さんは小学校の教師になるのが夢。そのことを昨年2月の学校行事「少年式」で全校に宣言している。

(2017-03-17 毎日新聞)

記事


[] 啄木を「青春回想、望郷、挫折、流浪、病」の観点で論じなさい。(高2)

成城スクールライフ 成城中学校成城高等学校

 ◯ 高2:石川啄木座談会

  • 冬休み中の2016年(平成28)12月24日、高校2年の生徒6名による「石川啄木座談会」を開催しました。これは国語表現(担当及川)の2学期の授業を踏まえ、討議を通じて石川啄木とその作品についての理解を深めるとともに、授業の振り返りと総括とを意図したものです。
  • 石川啄木の授業は高校2年生8クラス(文系・理系とも)を対象に、2学期10時間をかけて行いました。10月考査までの5時間は、啄木やその周辺の人々や事件について知識を吸収することに費やしました。12月考査までの5時間では、1時間目に3人1組を作り、それぞれ3首ずつ担当の歌を割り振り、調査項目を指示しました。
  • 12月考査では、啄木の短歌を覚えているかどうかを問うとともに、作文を課しました。設問は「青春回想、望郷、挫折、流浪、病の5つの観点から1つ選び、啄木について200字程度で論じなさい」というもの。
  • 発言の中から特に注目すべき箇所を紹介したいと思います。
    • 啄木の功績は、その寂しさというのが原動力となっていたのではないか。
    • 啄木にはやり残したことがあったかも知れませんが、こうして表現できたということは、幸せな死だったんじゃないか。
    • 啄木について思っているイメージは、やっぱり「子供っぽいな」ということなんです。素直に気持ちを短歌で表している。
    • 啄木の人間としての成長が、歌全体を通して見たとき感じられました。
    • 彼が恋に対して真っ直ぐであった。
    • 啄木もやはり私たちと同じ心を持っているんだなということを改めて実感しました

(2017-03-15 成城中学校成城高等学校

記事


2017-03-17

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <1>

啄木文学散歩・もくじ


1 哀愁テーマパーク「土方・啄木浪漫館」(石川啄木函館記念館)



函館と啄木の関わりは、函館の文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」によって始まりましたが漂泊生活の出発ともなった函館生活の132日間は、彼の26年の生涯にとって最も楽しく充実した時期であり、さらに最大の援助者となった宮崎郁雨との出会いや、作歌意欲が再燃するなど、特筆される出来事が数多くありました。

(「函館に守り遺されてきた啄木日記」函館市文学館 石川啄木生誕130年記念図録)



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「土方・啄木浪漫館」へ向かう道


「土方・啄木浪漫館」は、大森浜を背に国道278号に面して建っている。


  • 昔は湯川から新川まで連なっていた砂丘を大盛(大森)といい、この浜を大森浜、そしてこの砂丘を砂山と呼んだ。啄木が好んで散歩した場所である。そこには、ハマナスの赤い花が汐風で揺れていた。
  • 啄木は132日間を過ごしたこの函館に数々の美しい歌を残しています。明治という遠い時代にそして函館に、哀愁という言葉を残して去った歌人石川啄木
  • 1999年12月、啄木が最も愛した地、函館のはまなすの咲く砂山と大森浜に開館した。

石川啄木函館記念館HPより)







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「正面玄関」


1階 武士を超えた義士「土方歳三」ゆかりの愛刀、碁石、尺八等、その他膨大な幕末の資料展示


2階 石川啄木の世界






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「浪漫館の右側面」


右の写真(上より)

       ◯ 中学三年の啄木

◯ 釧路の芸者・小奴    ◯ 函館区立弥生尋常小学校の同僚・橘智恵子

◯ 啄木の妻・節子     ◯ 経済的にも支えてくれた親友・宮崎郁雨

などの写真がディスプレイされている。


右端に小さく大森浜湯の川温泉方向の建物が見える。






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「入口近く 壁のポスター」


この場所で3/20に開演する。


和太鼓朗読劇 『石川啄木物語〜君に与ふウタ〜』

  • 2017年3月20日(月・祝)
  • 会場:土方・啄木浪漫館

 ①昼の部 10:30〜12:00(受付10:00〜)

 ②夕の部 14:30〜16:00(受付14:00〜)


渋民、盛岡、そして函館、札幌、小樽、釧路、東京…「漂泊の歌人・石川啄木」。

いつしか誰かがそう呼んだ。二十六歳で散った命の、その旅の続きを悼みながら。







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「2階への階段」


2階にある浪漫シアターは、明治40年の弥生尋常小学校の教室となっている。100名くらい座れる椅子が並ぶ。

袴をはいた啄木先生の等身大ロボットが話をする。よく出来たロボットで、体の向き、顔、手も生きているように動く。







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石川啄木ロボットと教室」(「土方・啄木浪漫館」パンフレット)


「みなさんこんにちは。元気そうですね。私は弥生小学校で先生をつとめることになりました石川啄木です。函館に来たのは自分の夢と希望を叶えさせてくれる友達がいるのと、北海道の大地への憧れがあったからです」

大森浜を散歩しながら歌を作っています」

このような、子どもたちへの呼び掛けで始まる。

途中からは啄木を紹介する映画になる。

生まれた頃、文学を志した頃、古里を去り函館に住んだ頃(友人に囲まれ、妻子を呼び寄せ家庭の温もりを感じた)、東京に住み文学の途上で26歳の人生を終えたとき。






◎ 返還された「啄木の歌を書いた旗」

たくさんの資料の中に、日の丸の旗の展示があった。説明には、この旗は「オーストラリア人兵士から、平和が続くようにと返還された」と、あった。

   於 タラカン島

   昭和二十年十月十四日

   石川啄木の詩


日の丸を囲むように啄木短歌が書かれていた。

  

  己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし

  函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

  東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

  ……

  





  • 哀愁テーマパーク「土方・啄木浪漫館」

(つづく)

 


2017-03-15

[] 啄木と賢治が震災と向き合ったならどうするか  復興支援フォーラム

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[トビ]


盛岡・文化復興支援フォーラム

 震災 詩歌で次代へ 啄木と賢治にも言及

  • 3・11いわて文化復興支援フォーラムは、11日、盛岡市鉈屋町のもりおか町家物語館で開かれた。盛岡市出身の詩人城戸朱理さんと、作家の外岡秀俊さんが、意見を交わした。
  • 啄木と賢治が震災と向き合ったならどうするかという仮定について、城戸さんは「啄木は悲しみが普遍化したようなものすごい名作を書くだろう」と推察。短歌には俳句と異なり主体性や私性があり「出来事の悲惨さではなく自分の内側に取り込んだ悲しみを詠むのではないか」と想像した。
  • 外岡さんは「『銀河鉄道の夜』や『グスコーブドリの伝記』など、自己犠牲やレクイエム的な作品ですでに震災を描いている」と賢治作品の普遍性を示した。
  • 会場からの質問の「言葉で語り得ることと語り得ないことの境界がどこにあるか」に対して、「事実を残すことは大切で、既に賢治も啄木も書いているという意味では、書き得ない境界線というものはない」と展開。語り得ないものに対して沈黙するのでなく、教訓や伝承を後世に引き継いでいく言葉の力の重要性を強調した。

(2017-03-14 岩手日報


[] 追悼・柏崎驍二さん 短歌甲子園実行委員長

追悼・柏崎驍二「最後の仕事」 小島ゆかり(歌人)

  • 今年12年目を迎える短歌甲子園(全国高校生短歌大会)は、柏崎驍二さんが遺してくれた最後の大きな仕事である。
  • 短歌甲子園は、石川啄木と青春の歌を顕彰するという目的で、2006年に始まった。先行する俳句甲子園に学びつつ、独自の方向を模索しながら船出したという。わたしは第二回から特別審査員を務めてきたが、実行委員長であった柏崎さんの言葉をいまもよく覚えている。
  • 俳句甲子園では、相手チームの作品の欠点を批判し、自分のチームの作品のよさをアピールする、いわゆるディベートがあるけれど、短歌甲子園ではそれはしない。ディベートによって盛り上がる俳句甲子園のよさはよくわかる。しかし、自己演出が上手な人がもてはやされる時代だからむしろ、歌のよさをちゃんと共有できる場にしたい。短歌甲子園では、審査員が作品に関する簡単な質問をするにとどめて、全員が歌だけと向き合う、若い人のためにそういう場を作ろう、と。ふだん静かな柏崎さんが、珍しく熱心に語られて驚いた。
  • 柏崎さんは優れた歌人であると同時に、ふところの深い教育者であったのだ。

(2017年3月10日「日本現代詩歌文学館『詩歌の森』官報 第79号」)


歌人の柏崎驍二さん

  • 柏崎驍二さん(かしわざき・きょうじ=歌人)が2016年4月15日、白血病で死去、74歳。
  • 岩手県に生まれ、風土に根差した歌を詠み続けた。短歌研究賞と詩歌文学館賞を受賞。歌集「北窓集」で斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。

(2016-04-16 朝日新聞)


2017-03-13

[][] 国際啄木学会 東京支部会 明大 駿河台校舎 3/26

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[ミモザ]


国際啄木学会 東京支部会

  • 2017年3月26日(日)12:00 〜
  • 場所 明治大学駿河台校舎 研究棟2F 第9会議室

  • 「『一握の砂』『悲しき玩具』ー編集による表現ー」合評会

大室精一先生の近著「『一握の砂』『悲しき玩具』ー編集による表現ー」(おうふう2016.12.1出版)の合評会をします。「大室氏の大著に思う」と題して近藤典彦先生にお話をいただくほか、盛岡支部より森義真先生にもお話をいただきます。大室先生ご自身からのお話もあります。

本書をご持参のうえ、ご参加ください。


○ 14時から理事会(支部会は14時までに終了)


 ☆ 初めての方のご参加も歓迎 ☆



2017-03-11

[] 啄木と同じようにあの朝「言ひそびれたる大切の言葉」をつぶやいて……2011.3.11

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[ウメ]


〈くろしお〉「言ひそびれたる大切な言葉」[宮崎日日新聞]


  「かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど」

  • この一首は石川啄木の歌集「一握の砂」の中にある。作者が言いそびれたのは、いとしい人への告白だったか。
  • 歌人の俵万智さんはその著「あなたと読む恋の歌 百首」で指摘する。「恋愛の場面で生まれた歌だが、親子関係や友人同士においても、『言ひそびれたる大切の言葉』を胸に抱えていることが少なくない。そんなふうにも読めるところがこの歌の奥深さ」だ、と。
  • 東日本大震災はきょう発生から6年を迎えた。死者1万5893人、行方不明者2553人、避難生活での体調悪化などが原因の震災関連死は3523人。延岡市の人口に匹敵する12万3千人もが避難生活を送っている(3月10日現在)。
  • 啄木の胸の内と同じようにあの金曜の朝、親がこどもらに、こどもが親に、あるいは夫婦の間で言いそびれたことが無数にあっただろう。週末の予定だったり4月からの新しい生活のことだったり。「帰宅してからでいいかな」。そう思って手を振って最後の別れに。
  • 大震災はいろいろなことを教えてくれた。平凡な一日、人と人のつながり、感謝の心の大切さなど。午後2時46分に「言ひそびれたる言葉」をつぶやいてみたい。おびただしい命が空へ昇った時間にそうすれば亡き人たちに届くと信じて。

(2017-03-11 宮崎日日新聞)

記事


2017-03-09

[][] 東京都北区 赤レンガ図書館で「石川啄木の日記を読み解く」

啄木文学散歩・もくじ


東京都 北区立中央図書館 ドナルド・キーンコレクションコーナーのある赤レンガ図書館

  パネル展「石川啄木の日記を読み解く」--ドナルド・キーン


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「砲兵工廠の赤レンガ倉庫」が「赤レンガ図書館」に


1905年(明治38)当時、小石川にあった東京砲兵工廠銃包製造所が、ここ十条の地に移転してきた。1919年(大正8)、弾丸鉛身場としてこの赤レンガ倉庫が建設された。1945年(昭和20)まで、小銃や機関銃の弾薬、薬莢、火薬類の製造が行われていた。戦後、アメリカ軍に接収された後、返還され、陸上自衛隊が武器補給処十条支所として活動する。2008年(平成20)北区立中央図書館に生まれ変わる。(北区立中央図書館HP「赤レンガ倉庫について」より)


  • 赤レンガと芝生の間にはテラス席がある。本を読んだりお茶を飲んだりお弁当を食べたり、自由にのんびりできる。

  • 明るく光る芝生は手前にずっとつながり、とても広い遊び場になっている。大勢の人たちが遊んでいた。







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「図書館の正面入口」


  • 近代的な外観。この背中側に赤レンガ館があるなんて!

  • 館内は段差のないフロア、車いすの人にも便利な机、書架、トイレ。また、自動貸出機もある。







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「おしゃれな入口の看板」


  • 図書館表示の下には、「アトリエ・ド・リーブ 赤煉瓦Cafe」も紹介されている。







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ドナルド・キーンコレクションコーナー」(パンフ)




北区の名誉区民で北区アンバサダーの日本文学研究者ドナルド・キーン氏から寄贈があった書籍、絵画を、中央図書館1階に「ドナルド・キーンコレクションコーナー」として公開しています。キーン氏の書き込みのある貴重な図書も、レファレンスカウンターでお申し込み頂ければ、コレクション閲覧室内で自由に手に取ることができます。(「ドナルド・キーンコレクションコーナー」の紹介文より)


  • 黒柳徹子さんからキーン氏宛のハガキが飾ってあった。1994年夏、黒柳さんが飯沢匡著『異史 明治天皇伝』をキーン氏に送ったときに添えたハガキ。
  • 背表紙に赤丸シールのある本は、キーン氏自身の書込みやサインが入っている。緑丸シールは、キーン氏への贈呈者の書込みなど。
  • ぎっしりと書き込みのある本を手に取って眺めていると、3・11東日本大震災の後、「日本人と共に生き、共に死にたい」と日本国籍を取得したキーン氏の人柄が伝わってくるようだ。
  • 若い頃のキーン氏とご家族との写真、愛犬との写真などがあった。展示してあるキーン氏の日本文による直筆原稿は、石川啄木の文字にどことなく似ているように感じた。






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「パネル展のチラシ」


パネル展「ドナルド・キーン 石川啄木の日記を読み解く」

  • 展示は、2017年3月30日(木)まで
  • チラシの左に写っている三枚のしおりは「ドナルド・キーン著作集(新潮社)のカバーのデザインから作ったもの。京型染め友禅の型紙よりとの説明があった。







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「展示内容一覧」(チラシ)

パネル展は1階エントランスで開催中。


  • 2016年に新潮社より出版したドナルド・キーン著、角地幸男訳 『石川啄木』の本から抜粋している。
    • 生まれつきの反抗精神を持った啄木。渋民への愛着はそこから離れてからいよいよ増していったこと。
    • ローマ字日記は他人に秘密にすることを意識したものではなく、むしろどのように読まれるかを意識し計画的に書いている。それは「文学作品」に近い。
    • 啄木は明らかに現代歌人だった。まるで我々と同時代の人間。

  • 第一章から最終章までを一章ごとに写真付きの説明文で紹介している。







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赤レンガ倉庫部分は開架書庫になっていて天井がとても高い。






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「自衛隊駐屯地との間にある遊歩道」


  • 表の底抜けに明るい外観と、裏側に広がる煉瓦造り外壁とのギャップがすごい。

  • ここはオシャレな遊歩道になっている。






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「ガラスに映り込んでいるのは陸上自衛隊十条駐屯地の建物」


  • 総務省のサイトには「北区域には、赤羽、志茂、十条等にかけて軍需工場や軍事施設があり……」とあったが、この場所は空襲には遭っていないとのこと。

  • このガラスの中で、小銃や機関銃の弾薬、薬莢、火薬の製造が行われていたのだと思うと、煉瓦の傷みにも歴史を感じる。




東京都 北区立中央図書館

  東京都北区十条台1丁目2−5


北区立中央図書館HP


 
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「本家 啄木の息」は、下記のリンクでご覧になれます。

・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

◉ 「本家 啄木の息」のトップページ ……………… アーカイブです。(文字化けする場合あり)


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