啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

 

2016-08-25

[] 啄木が短歌に込めた先の見えない不安。それは今の世も。

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[ビルベリー]


潮流

  • 貧しさと病にさいなまれながら、人間として成長していった石川啄木。生誕130年の今年、評伝を上梓(じょうし)した日本文学研究者のドナルド・キーンさんは彼の生き方に現代性を感じるといいます。
  • 実生活を赤裸々につづったローマ字の日記。亡くなる直前までつけていた最後は「金はドンドンなくなった」。母親と自身の薬代を工面するため、下着や妻の帯まで質草にしたとあります。
  • 〈はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る〉。啄木が短歌に込めた先の見えない不安。それは今の世も。非正規雇用の拡大や低賃金、社会保障は受けられず人生設計もたてられない。改善どころか政治が若者の貧困をひろげています。
  • 啄木もまた苦しい生活の中に変化を求めました。キーンさんは「時代にとらわれない個性がある」と。そして、早世の歌人と通じる今の若者に希望を寄せています。

(2016-08-25 しんぶん赤旗

記事


2016-08-24

[][] 秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <4>


4 「『康楽館』の歌舞伎」を啄木の姉夫妻は………

  

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「明治百年通り」

「小坂鉱山事務所」「康楽館」など重要文化財の建築物が立ち並ぶ遊歩道。

アカシアと桜の並木に、はためく幟が美しい。






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明治の芝居小屋「康楽館」

康楽館は1910(明治43)年、小坂鉱山の娯楽施設として開館した。木造芝居小屋で和洋折衷の造りが特徴。東北唯一の回り舞台を持った芝居劇場で、2階建て、花道があり定員800名という堂々たるものだった。下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ。


今でも、ほとんど毎日、しかも1日2公演がある。


移築や復元をしないで、現在も利用されている木造芝居小屋として日本最古だそうだ。






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康楽館・鉱山慰安会・電気まつりのパネル(郷土館)







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満員の康楽館(パンフ「近代化産業遺産」小坂まちづくり株式会社)

「家族慰安会」と称して、全従業員とその家族が歌舞伎を楽しんだ。


康楽館誕生は1910(明治43)年で啄木の姉サダが亡くなったのは1906(明治39)年だったため、少なくともサダは康楽館でお芝居を楽しむことはできなかった。






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「康楽館」(大館能代空港のジオラマ)


七夕祭は各地それぞれに先祖をまつったり、芸事上達や願掛けなどの由来や意味をもつ。

「小坂七夕祭」は明治末ごろ、全国各地から集まった鉱夫らが故郷に思いを馳せて始まったらしい。「明治百年通り」や「康楽館」を中心に行われるこの祭りには、鉱山の繁栄や鉱山犠牲者の供養などへの願いが込められているという。


康楽館100年のあゆみ

  • 康楽館は、音楽会や講演会、労働運動の集会などにも利用された。しかし、主に劇場として利用され、小坂鉱山主催の“慰安会”も行われた。毎年6月頃に約1週間無料で全従業員とその家族全員、地域住民までも、歌舞伎を楽しむことができた。
  • 戦争中は、康楽館が強制連行された中国人労働者の宿舎として使用された。昭和20年(1945)3月の記録には「小坂鉱山華人200名…」「一体に疲労している。寮は康楽館で、食糧問題には困っており…」、劣悪な栄養状況と過酷な労働で、中国人労働者の最終的な死者は62名に上ったといわれている。
  • 康楽館は戦後いち早く劇場としてよみがえり、特に映画館として華やかな時代を迎えた。しかし、テレビの普及とともに映画離れが進み、昭和45年頃には一切の興行も停止された。劇場としての復興は昭和61年(1986)の修復オープンを待つことになった。

(広報こさか No.1011 2010年8月号)



  • 康楽館
    • 秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2

 

(つづく)


2016-08-22

[][] 秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <3>


3 「郷土館」にて ── 啄木の姉夫妻が小坂にいた頃


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小坂町立総合博物館『郷土館』

鉱山と湖のまち小坂の歴史・文化を中心に展示している。


田村叶・サダ(啄木の姉)夫妻が小坂鉱山に転職した1904(明治37)年の翌年、小坂鉱山は、資本金60万円を300万円に増資。この年、小坂鉱山の煙害、10か町村に広がる。サダが亡くなった1906(明治39)年には、資本金300万円を600万円に増資。

小坂鉱山の明治40年度鉱産額は金属・非金属を通じてわが国第1位。これは当時の秋田県の歳入の8倍強に当たる。

(小坂鉱山の歴史ひとくちメモ > 小坂町役場)(社史編纂委員会『創業百年史 [資料]』同和鉱業株式会社 昭和60年(1985))






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「黒鉱(くろこう)」

重さ約1トンのこの黒鉱は、地下250mから掘り出された。

1898(明治31)年頃、銀が底をつき、閉山の危機にさらされた。1902(明治35)年この黒鉱から自熔製錬によって銅をとることに成功した。小坂鉱山は品位、鉱量ともに国内一級の銅山として生まれ変わった。







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大正2年頃の小坂町

この頃は小坂鉱山の最盛期で人口は2万人を超えていた。右手に東洋一といわれた、明治35年に建てられた高さ約200尺(60m)の八角形の煉瓦造りの大煙突がみえる。



田村叶は妻サダを亡くした同じ年、三男を、そして次女を事故で亡くしたが、小坂鉱山から離れず働いていた。そのうち長女、長男、次男も独立して家を出たため、鉱山の独身寮に移った。

(サダが亡くなったときは、まだ35歳だった叶は、再婚をすすめる人に)

「いくら生まれかわっても、さだ子のようないい妻を持てるとは思えないから、一生独身で通すのだ」と言ったそうである。

(吉田孤羊『啄木発見』洋々社 昭和47年)

昭和8年、長男の住む東京へ行き、昭和11年に胃ガンのため、66歳の生涯を閉じた。






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最盛期の小坂元山露天掘跡

明治41年(1908)〜大正9年(1920)に行われた歴史的掘削(国内初)。

大正3、4年ごろは、その階段は15段余りもあり、約3,000人が働いていた。採掘跡は、東西300m、南北750m、深さ150mで、日々の作業量は、当時世界の大事業であったパナマ運河に匹敵するといわれた。

(小坂鉱山の歴史ひとくちメモ > 小坂町役場)









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小坂・花岡・柵原従業員構成(社史編纂委員会『創業百年史 [資料]』同和鉱業株式会社 昭和60年(1985))

明治17年には従業員が約700名だったが、明治36年には5千名を超えた。

採掘鉱量は明治17年に3千トンだったが、明治36年には21万3千トンへと増えた。

明治39年から大正2年にかけては毎年35万トン前後採掘されている。

明治17年から昭和21年までの間で、明治39年〜大正2年の頃が最大の採掘鉱量である。


田村叶さんの生涯を通してみて、私の感動を深くさせられることの一つは、一生、義弟啄木を語らなかったことである。啄木の名声は歿後日増しに高く、小坂鉱山時代はもちろん、上京したころの昭和十年前後といえば、小学生ですら知らないもののないほど知られておったにもかかわらず、一度も啄木とゆかりあるものだということは発表したことがないのである。

だから、小坂時代を知っている人も、田村さんが啄木の義兄だったということを知った人はひとりもなく、ただ、おとなしく、まじめで、物知りで、やさしい人だったという思い出しか残っていないのである。これほど有名になれば、ゆかりのない人すらも何かをきっかけにして親しかったことなど誇示したがるものなのに、田村さんにはかつてこのことがなかったのである。

田村さんの遺品の一つに、小さな硯箱ぐらいの可愛らしい竹篭が残されている。この篭に啄木の手紙が一杯詰められてあったそうだが、亡くなる直前、「肺病やみのものだから」と、微笑しながら一通残さず焼いてしまったということである。

(吉田孤羊『啄木発見』洋々社)



  • 総合博物館「郷土館」
    • 秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1


(つづく)


2016-08-19

[] 「短歌甲子園」団体決勝トーナメント 石川啄木のふるさとで

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[ツリガネニンジン]


福岡女学院高が短歌甲子園優勝

  • 歌人石川啄木の故郷、盛岡市で19日、全国35校の高校生が短歌の腕前を競う「短歌甲子園」の決勝戦があり、団体戦で福岡県の福岡女学院高が初優勝した。個人戦は群馬県立太田高2年の須磨優樹さんが最優秀作品賞に選ばれた。
  • 岩手県勢で唯一、決勝トーナメントに進出した盛岡一高は、石川啄木の母校というプライドも胸に対戦したが、準々決勝で秋田の能代高校に敗れた。
  • 決勝戦の題は「火花」。福岡女学院高のリーダー北崎友香子さんは「私にはできないなんて思ってる 自分に散らす 青い火花を」と詠み、弱気な自分を静かに奮い立たせる様子を表現した。短歌の世界に魅了された高校生たちの「短歌甲子園」。彼らはこれからも三十一文字に想いを込め続ける。

(2016-08-19 共同通信、テレビ岩手、IBC岩手放送

共同通信

テレビ岩手

IBC岩手放送


2016-08-18

[][] 〜130年の時を超えて〜国際啄木学会盛岡大会 11/5~6

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2016年 国際啄木学会盛岡大会

 −啄木生誕130年 盛岡玉山合併10周年−

 〇大会テーマ:明日の考察〜130年の時を超えて〜

 〇会場:姫神ホール・渋民公民館2階大会議室・視聴覚室


◎2016年11月5日(土)

  • 11:00 理事会(視聴覚室)
  • 13:00 開会行事(以後、姫神ホール)

  開会あいさつ、渋民小学校児童校歌、学生短歌大会表彰式、渋民中学校生徒による群読劇

  • 14:20 講演「村岡花子と啄木」 三枝昻之氏(日本歌人クラブ会長)
  • 15:30 パネルディスカッション
    • テーマ「明日の考察〜130年の時を超えて〜」
  • 17:00 1日目閉会挨拶
  • 18:15 懇親会(マリオス内スカイメトロ)会費5,000円

◎11月6日(日)

  • 9:15 研究発表(公民館2階大会議室)

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  • 11:10 ミニ講演「私の啄木研究・翻訳」
    • P・A・ジョージ氏(インド・ネルー大学)
    • 高淑玲氏(台湾・景文科技大学)
    • ウニタ・サチダナンド氏(インド・デリー大学)
  • 11:55 2日目閉会挨拶

  • 13:00 文学散歩バス運行(石川啄木記念館、宝徳寺、渋民公園、常光寺、啄木であい道など)参加費1,000円
  • 16:20 バス盛岡駅着(予定)

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#入場無料 どなたでも自由に参加できます。

#アクセス 盛岡駅から会場まで直行バスが運行されます。


国際啄木学会HP 盛岡大会 開催要項


[] 啄木ゆかりの地で心の一首 盛岡、短歌甲子園開幕

  • 第11回全国高校生短歌大会短歌甲子園2016(同実行主催)は17日、盛岡市渋民の姫神ホールで開幕した。全国35校の選手や引率教諭ら約160人が参加し若い感性を競う。
  • 第1日は組み合わせ抽選の後、題詠ツアーを実施。選手は団体1次リーグで発表する歌を詠むため、渋民公園など啄木ゆかりの地を巡りながら、各チーム2題ずつのテーマについて仲間と相談して想を練った。
  • 17日夜には同市松尾町の盛岡劇場で開会式を開いた。第2日の18日は同劇場で団体1次リーグと個人の題詠を行う。最終日の19日は同劇場で団体決勝トーナメントと個人公開決勝審査を行う。

(2016-08-18 岩手日報

記事


2016-08-17

[] まだ上州の山は見えずや・朔太郎 ふるさとの山はありがたきかな・啄木 

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[オトコエシ]


[国語逍遥(75)]

忘れ得ぬ山 「歌枕」として愛するのかも 清湖口敏


  • 萩原朔太郎晩年の詩集『氷島(ひょうとう)』に「帰郷」と題する一編がある。前書きに「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る」と記されたとおり、失意のなかで2人の娘を連れて東京からの夜汽車に乗り、故郷の群馬へと向かう。
  • 「わが故郷に帰れる日/汽車は烈風の中を突き行けり。/ひとり車窓に目醒(めざ)むれば/汽笛は闇に吠(ほ)え叫び/火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。」
  • 故郷を捨てたはずの彼はしかし、詩をこのように続けたのである「まだ上州の山は見えずや。」望郷の思いが突き上げてきたのだろうか。私にはこの詩句が慟哭(どうこく)のように聞こえてしかたがない。
  • 朔太郎の「故郷の山」が上州の山なら、「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだ石川啄木のそれは、生まれ育った岩手・渋民から望む岩手山だったろう。
  • このように「故郷の山」を胸に抱き続けるのは、もちろん彼ら詩人の特権でも何でもなく、多くの日本人にごく普通にみられることである。

(2016-08-17 産経ニュース)

記事


2016-08-16

[][] 啄木と牧水 二つの短歌甲子園へ 8/17~19, 8/20~21

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[カツラ]


いざ!二つの短歌甲子園 盛岡二高、啄木と牧水

  • 盛岡二高は、石川啄木の生誕地盛岡市で17日に開幕する第11回全国高校生短歌大会「短歌甲子園2016」と、若山牧水の古里宮崎県日向市で20、21日に開かれる第6回牧水・短歌甲子園に出場する。「啄木」は5年連続10度目、「牧水」は3年連続3度目の参加。啄木生誕の地の代表として、二つの甲子園で健闘を誓う。
  • 両甲子園とも3人一組で出場。啄木ゆかりの地を歩きながら歌を詠む「啄木」は即詠力が鍵となる。リーダーの葛西さん(2年)は「肩の力を抜いて、悔いが残らないように全力を尽くしたい」とチームを引っ張る。



<全国35校が「一首」競う 盛岡で17日から「短歌甲子園」>

  • 第11回全国高校生短歌大会「短歌甲子園2016」は、全国35校の約120人が石川啄木生誕の地でこん身の一首を詠む。
  • 県勢は盛岡一、盛岡二、盛岡四、盛岡商の4校が出場。19日は個人と団体の決勝までを行い、高校生歌人の頂点を決める。

(2016-08-16 岩手日報

記事


[] 【行雲流水】(古い手帳から)

  • 思いがけず、高校時代の古い手帳が出てきた。日常のことや友人のこと、学校生活の様子が偲ばれて、面白い。
  • 青少年赤十字のうた『空は世界へ』が書かれている。盛んだった赤十字の活動は、生徒たちの博愛心や理想主義精神を育む大きな力になったに違いない。うれしはずかし。何よりも、男女が手をつないで踊るフォークダンスにみんな心を奪われていた。
  • 啄木のうたが書かれている。「世の中の明るさのみを吸うごとき黒き瞳の今日も目にあり」。「新しき明日の来るを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど」。青春時代に出会う。また、楽しからずや、である。

(2016-08-16 宮古毎日新聞

記事


[] 岩手大文学部を石川啄木学科に……

賢治とわたし

(3)劇作家 平田オリザさん 53

「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」という賢治の呼びかけに導かれるように、全国で文化による地域おこしをしている平田オリザさんに、賢治の思想に共鳴する理由を尋ねた。

  • 「オリザ」という本名からして、賢治とゆかりが深そうですね。
    • 私の名前は「グスコーブドリの伝記」に出てくるオリザという穀物から父が取ったものです。食いっぱぐれがないようにと。
  • 生誕120年を迎える賢治の作品を、今どのように読みますか。
    • いろんな見方ができる、プリズムのような作家です。東日本大震災を経験した日本人には、不条理を描いた作家と捉えることができます。津波から逃れて生き残った人と、亡くなった人の境界線に理由などありません。賢治の作品にも「銀河鉄道の夜」のように、唐突に死が訪れるものが多いのです。
  • これからの岩手県の可能性をどう見ますか。
    • 岩手大の全学部を廃止して「宮沢賢治学部」にしてはどうでしょう。哲学も化学も農学も全部できます。東京の私学にリベラルアーツ学部なんてのはたくさんありますから、宮沢賢治学部の方が魅力的。文学部を石川啄木学科にしたり。それくらいの攻めがないとね。

(聞き手 吉田尚司)

(2016-08-16 読売新聞)

記事


[][] 国際啄木学会盛岡支部例会 8/20

学芸短信

  • 8月20日午後2時から、盛岡市のアイーナ6階団体活動室3で。山田武秋さんが「啄木歌への西行の影響について──詠嘆の終助詞『かな』を中心に」、赤崎学さんが「啄木モダニスト説の再検討」と題して話題提供。

(2016-08-16 岩手日報


2016-08-15

[][] NHKテレビ 啄木と節子の生誕130年記念番組 9/16

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[コバノガマズミ]


NHK総合テレビ歴史秘話ヒストリア

2016年9月16日(金)20:00〜20:43

 「啄木と節子の純愛物語(仮)」



歴史。それは、絶え間なく流れる大きな川。
その中のキラキラした一滴を「秘話」と呼びます―

バラエティ豊かな 驚きの、楽しい、そして感動する“歴史秘話”お届けします!


記事(8/15現在、「9/16放送の内容」はまだ載っていません)


[] 結城二高 6年連続「甲子園」出場 短歌の栄光は君に輝く

  • 茨城県立結城二高の文芸部が今夏、石川啄木ゆかりの地の盛岡市で開かれる「第十一回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)」に出場する。六年連続六度目となる快挙。定時制の同校は、文芸部も幅広い年齢層の異色チーム。
  • 全国の四十六校六十二チームから応募があった短歌で予選を争った。この中から三十六校三十六チームが選ばれ、全国大会に駒を進めた。
  • 大会に出場するのは部員三人と補欠メンバー。定時制高校は全日制とは異なり、働きながら通学する生徒も多い。 (原田拓哉)

(2016-08-13 東京新聞

記事


[] ちまたで博多弁が人気だという

  • 関西から帰省した大学生の息子が「向こうじゃ、よく『福岡出身なら何かしゃべって』って言われる」と話すのを聞いて誇らしい気分になったが、「だけど俺、博多弁よう知らへんねん」と続けたのであきれ返った。
  • 博多弁が刺しゅうされたグッズで知られる「松田ネーム刺繍店」店主、久保純一さんは「今は博多の若者でも『えずい』とか『しろしい』とか独特の言い回しは使わんけんねぇ。人気があるのは女子が話す博多弁だけばい」と笑う。「ふるさとの訛(なま)りなつかし〜」と歌ったのは石川啄木。方言に郷愁を感じない時代が来るとしたら…。そりゃちょっと寂しかばい。 (益田孝)

(2016-08-13 西日本新聞朝刊)

記事


[] 山の日 登るもよし眺めるもよし

【主張】

  • 気象の急変のように自然はどんな脅威をもたらすか分からない。条例で登山届の提出を義務づけるなど自治体の取り組みも進んでいるが、登山者自身が安全に対する自覚を深めることが何よりの備えであるのは言うまでもない。
  • お盆の帰省では、懐かしい山を目にしたときに初めて「帰郷」を実感するという人は多いだろう。石川啄木は「ふるさとの山はありがたきかな」とうたったが、さて、あなたの心の中に聳(そび)えているのはどんな山だろうか。

(2016-08-11 産経新聞)

記事


[] 「ひげ」のない石川啄木なんて……

人生相談

 男性が「ひげ」を生やす理由が分からない=回答者・高橋源一郎

Q 私が気になっているのは、男はなぜ「ひげ」を生やすのかということです。私はひげが嫌いです。不潔感といやらしさを感じます。男はなぜひげを生やすのか教えてください。


A

  • 金色夜叉」で有名な尾崎紅葉という作家は「明治の文豪」の一人ですが、亡くなったのは、まだ35歳。若いですねえ。でも、残された写真を見ると、めっちゃ貫禄があります。紅葉さんだけではありません。森鴎外夏目漱石幸田露伴、かの時代の文豪たちはみんな威厳に満ちて超カッコいい。同業の作家たちとよく話すのですが、どうして我々は、あの人たちに比べて重みにかけるのか。もしかしたら、我々が「ひげ」を生やしていないからなのかもしれない。
  • 「ひげ」のない(たぶん、生えなかったのでしょう)石川啄木なんて、子どもみたいで、ほんとに気の毒です。
  • 「ひげ」を生やすということは、男性が強かった時代へのノスタルジーを無意識に持つ男の、はかない願望を秘めたファッションなのだと思います。それぐらい許してやってください。「男らしい男」というコスプレ、ってやつですよ。(作家)

(2016-08-15 毎日新聞)

記事


2016-08-10

[][] 秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <2>


2 啄木の姉サダの夫が働いた「小坂鉱山事務所」


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小坂鉱山事務所


秋田県鹿角郡小坂町の小坂鉱山は、江戸末期に発見された。

ヨーロッパの進んだ技術が導入され、黒鉱自熔製錬法の完成と露天掘によって、銀山から銅山に生まれ変わり日本三大銅山として大きく発展した。町には社宅が建設され、「水と電気はタダ」で、住居・医療・体育・娯楽・文化の各施設のほか、郵便局・銀行・警察に至るまで企業が招請、設置した。山間のへき地の中に、こつ然と「都市」が現出していた。(小坂町役場>小坂鉱山の歴史ひとくちメモより)


1905(明治38)年に竣工した「小坂鉱山事務所」のこの写真を見れば、その繁栄ぶりが感じられる。


啄木の一番上の姉サダの夫・田村叶は、日本鉄道会社盛岡工場に勤め、盛岡中学へ通う啄木を同居させていた。しかし、5人のこどもがいる生活はやりきれなかった。生まれ故郷から景気がいい小坂鉱山に何人か就職した話を聞き、1904(明治37)年に小坂鉱山に転職した。この「小坂鉱山事務所」のできる前年だった。叶の仕事は塗装工で、一家で棟割り長屋に暮らし始めた。

当時、鉱山の階級制度はかなりきびしく、塗装工の田村叶の家は畳がなく板の間にゴザを敷いたきり、天井板はなく、隣とのしきりは壁ではなく、板の一枚だったという。(吉田孤羊『啄木発見』洋々社 昭和47年)






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玄関ポーチの上のベランダ


ルネッサンス風の外観をもつ木造三階建ての洋館は国の指定重要文化財である。


田村さんの仕事は、鉱山鉄道の客車の塗装や文字書きであったが、とくに文字のうまさは他に比肩する者なく、そのうえ温厚な人柄と共に、たいへん重宝がられた存在だったということである。(吉田孤羊『啄木発見』洋々社 昭和47年)


しかし、幼い子どもが5人いて知人も少なく親類もない土地での生活は、サダの健康をむしばみ、1906(明治39)年2月、肺結核のため31歳で亡くなった。

「水と電気はタダ」、住居も医療も企業が設置したというが、サダが生きていくのは難しかったのだろう。







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1階から3階まで欅造りの『螺旋(らせん)階段』

真ん中の柱は一本の秋田杉でできている。


姉・サダの死の知らせを聞いた啄木は、その葬儀にすら参列できなった。なぜなら啄木は「生活的には全く無能力者で」「収入といえば借金するほかに考えなかった」「啄木にしてみると、飛んでも行きたい気持ちだったに相違ない。しかしその汽車賃すらも工面できなかった」(吉田孤羊『啄木発見』洋々社)








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パネル展示「小坂鉱山事務所」(郷土館)


「愛する妻に死別するという、人間最大の悲劇に直面して、その実家から誰一人駈けつけてくれるものもなく、見知らぬ他人ばかりのなかで、しかも幼い子供たち五人も残されて、途方に暮れてしまった田村さん」(吉田孤羊『啄木発見』洋々社)








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ベランダの装飾


「藤の花」と「田」の透かし彫りで「藤田組」をあらわす。

小坂鉱山事務所は、藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建てられた。







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床一面の航空写真

現在の小坂町の航空写真の上に、昔の写真とその解説がある。


田村サダ


長姉サダの家から盛岡中学に通っていた頃の啄木は、二つの熱に浮かされていた。恋の熱と知識の熱と。サダは優しい姉であった。そして不幸な姉でもあった。16歳で結婚し、貧しい生活の中で5人の子を生し、31歳で帰らぬ人となった。

いつのときも、姉は弟の味方であった。難航していた節子との結婚問題も、彼女の奔走によって婚約にこぎつけることができた。なかなか会えない恋人たちのために、家を留守にしてふたりきりの時間をつくってやったりもした。

(山下 多恵子『忘れな草 啄木の女性たち』 2006年 未知谷 版)



  • 小坂鉱山事務所
    • 秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2


(つづく)


[] 岩手朝日テレビ「啄木が愛した盛岡・函館」8/15

◎特別番組

新・にほん風景遺産 啄木が愛した盛岡・函館 街の風景

 岩手朝日テレビ 2016年8月15日(月)午後3:55〜放送

   不来方のお城の草に寝ころびて

   空に吸はれし

   十五の心


歌の舞台は盛岡。

かつて「不来方」と呼ばれた、

この街が啄木のふるさと。


  • 出演者

<旅人>島田雅彦

<ナレーション>下平さやか(テレビ朝日アナウンサー)


記事


2016-08-08

[][] 秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <1>

秋田県鹿角市

縦に長い四角形をした秋田県。その北東部に鹿角市(かづのし)はある。日本海と太平洋から一番遠く、冬は寒さが厳しい。東は岩手県、北は青森県と接していて十和田湖が近い。

この静かで美しい東北の町に、石川啄木の縁を訪ねた。



1 啄木の母・カツに縁のある「常照寺」


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鹿角市十和田毛馬内にある常照寺の門柱


門柱を過ぎ、参道をまっすぐ進む。

参道の右奥に少しだけ見えているのが常照寺の建物である。


この寺は啄木の母・カツに縁がある。



 



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『啄木の母方の血脈 ─新資料「工藤家由緒系譜」に拠る─』表紙


工藤家由緒系譜

        工藤常象謹撰


カツ女  工藤カツ

カツ、父は常房、母はツヤ。カツ女、常房の四女にして岩手郡渋民村石川一禎に嫁し、一男三女を生む。長男一、父一禎の跡相続し、長女サダ紫波郡室岡村田村又右衛門長男田村叶に嫁し、二女トラ山本千三郎に嫁し三女ミツあり。





[参考資料]平姓熊谷氏系図 写


常照寺由緒記

奥州南部鹿角郡毛布之郷[毛馬内]摂取心光山常照寺開基俗姓、熊谷小治郎[小次郎]直家二十二代之末孫熊谷六郎直常と号す(後略)


開基釈超栄徳円法師

俗姓者熊谷小治郎[小次郎]直家二十二代六郎直常と号し奥州南部土沢に一宇を建立して居住す寛文六年(午)五月朔日六十八歳にて入寂す


十一世常房 熊谷条作

享和二年(戌)八月九日誕生 直次の実子なり三歳の時父に別れ故有て工藤祐盛に養われて生長す 妻は祐盛の別家工藤乙之助長女なり

安政六年(未)七月四日五十八歳にて死す 法名徳光院一蓮道翁居士妻はチヤ[ツヤ] 慶応三年(卯)九月二十二日死す 法名貞鏡院一安妙心大姉


女子 勝

石川一禎に嫁す 啄木の母なり


(編集者 森 義真・佐藤 静子・北田 まゆみ 

『啄木の母方の血脈 ─新資料「工藤家由緒系譜」に拠る─』2008年)







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真言宗大谷派 心光山常照寺



 両親の系譜

啄木の母工藤カツは盛岡藩士工藤条作常房の娘である。条作は工藤忠右衛門祐盛の養子で、その母のヱイは陸中国鹿角郡毛馬内常照寺の九世住職法雲和尚の一人娘であったが、父の死後零落して盛岡に住み、釶屋町の町人山屋半兵衛の妻となった。しかし夫の死後一子条作を連れて別家し熊谷姓を名乗った。これはヱイの先祖が熊谷小次郎直家の末裔と伝えられていたためである。熊谷条作はやがて成長して南部藩士工藤忠右衛門の養子となり、その一族である工藤乙之助の娘チヤを娶って妻とし、七人の子を儲けた。この末娘のカツが啄木の母親である。

(岩城之徳『石川啄木』短歌シリーズ 人と作品10 おうふう 平成6年)






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参道の観音様とお地蔵様


三女の勝(カツ)すなわち啄木の母…(中略)…特にいえることは、零落したが由緒ある寺院の出であることを誇りとして、我が子条作に家運の挽回を期待しこれを南部藩士工藤家の養子とした熊谷ヱイと、その孫にあたる啄木の母石川カツには似かよったところがあるように思う。啄木の母も寺を追われて零落したが、夫を頼らず望みをわが子に託し、貧しさの中にも士族の娘として誇り高く生きた。啄木が貧窮の中に示した気位の高さは、この母親の影響によるものであろう。

(岩城之徳『石川啄木伝』 筑摩書房 1985年)


 





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常照寺本堂


啄木関係人物略伝


石川カツ

この時代の啄木の母について実家の工藤大助は「シツカリした女にて裁縫を能くし、寺にあつて能く付近の衣服など仕立てあり。日戸時代には年に必ず一回、地方産物を持ち、子女全部を伴い、僕の幼時、僕の家に宿泊に来り、親切にしてなつかしき『オバ』と慕い居りたり。又世話ずきの人なりし、」と語っている。

(岩城之徳『補説 石川啄木傳』 さるびあ出版 1968年)



石川カツ


カツの写真は一枚もない。少女期に結核を病んだせいか、若いころは抜けるように白い肌の小柄な美人であったという。晩年息子からは「母の生存は、私と私の家族とのために何よりの不幸だ!」と日記に書かれ、嫁の節子には「きかぬ気のえぢの悪ひばあさん」と手紙に書かれたカツは、生涯啄木を盲愛・溺愛した。弱い啄木が丈夫に育つようにと、生涯卵と鶏肉を断ち、晩年は好きな茶を断って息子の平復を祈った。

啄木に度重なる挫折があり、それと同じだけの立ち上がりと飛躍があった。啄木のこの打たれ強さは母の絶対的な愛情に因するのではないかと想像するのである。

カツは、南部藩士の末娘として生まれた。仏門に入った次兄の寺で家事手伝いをしているときに、そこで修行中の三歳年下の一禎と結ばれた。当時では珍しい恋愛結婚であった。啄木の嫁節子との不和の部分に、啄木という人物に対する認識の違いがあったように思われる。カツは「石川一」を愛し、節子は「石川啄木」を愛したのである。息子の死に先立つこと一ヶ月、カツは家族を起こすこともなく、ひとりの床でひっそりと冷たくなっていた。

(山下 多恵子『忘れな草 啄木の女性たち』 未知谷版 2006年)     

       



(つづく)


 
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