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─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─
「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。
田園都市線の三軒茶屋駅。
改札の外側から見るポスター(中央)。
改札の内側。
正面。
「JOYと偉人(支援キャンペーン)」
石川啄木 享年26歳。 正岡子規 34歳。 滝廉太郎 23歳。 樋口一葉 24歳。
JOYさんは25歳のころに肺結核になり、その闘病経験から「ストップ結核パートナーシップ日本大使」に任命された。
思ふこと盗みきかるる如くにて、
つと胸を引きぬ――
聴診器より。
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。
『悲しき玩具』石川啄木
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[オトコエシ]
2015年 国際啄木学会シドニー大会
◎ 2015年9月5日(土)午前10時〜午後8時(懇親会を含む)
場所 シドニー大学(オーストラリア)
12:10〜 昼食
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[センニンソウ]
JOYと偉人(支援キャンペーン)
◎テレビCM・ラジオCM・新聞広告の3バージョンがあり、石川啄木が画像入りで登場する。
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[ムラサキバレンギク]
今週の本棚・この3冊
明星歌人と時代 松平盟子・選
<1>与謝野晶子評論集(与謝野晶子著、鹿野政直・香内信子編/岩波文庫/821円)
<2>ちくま日本文学033 石川啄木(石川啄木著/ちくま文庫/950円)
<3>メロディアの笛 白秋とその時代(渡英子著/ながらみ書房/2835円)
(2015-08-23 毎日新聞)
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石川啄木記念碑
The Monument to Takuboku Ishikawa
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石川啄木は、かつてこの地にあった新聞社の校正係として、
明治42年〜45年まで勤務していました。新聞社跡地の前に建つ記念碑には
「一握の砂」に収められている歌が刻まれています。
Takuboku Ishikawa worked at the Shimbun newspaper
which used to be located in this area, as a proofreader from 1909 to 1912.
The monument was erected in front of the site where the newspaper company had been situated
and is engraved with one of the poems from A Handful of Sand.
パネル右部分の啄木碑写真
京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな
啄木
#銀座の啄木パネルは、Googleマップのストリートビューで見ることもできる。
#一時的な展示の可能性あり。
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(2015-08-22 盛岡タイムス)
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青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-4
常光寺 歴代住職の墓地
葛原対月の墓について
『啄木の母方の血脈──新資料「工藤家由緒系譜」に拠る』
編集 森 義真 佐藤 静子 北田 まゆみ 2008年5月11日発行
対月の墓は、青森県上北郡野辺地町の日照山常光寺にあり、「前總持當寺十六世佛禎對月大和尚禅師」の墓碣銘として以下の銘が刻まれている。
「師諱ハ常久幼名勇治ト云フ熊谷条作ノ二男文政九戌年十二月一日盛岡仙北町ニ生ル安政五午年夏龍谷寺泰中和尚再會ニ立職同年玉山村東楽寺大舟和尚ニ嗣法慶應二丑(編注 「寅」の誤刻と思われる)年平館村大泉院初住十七世明治三午年龍谷寺へ轉住拾六世明治廿八未年當寺ヘ移住明治四十三戌年十一月初八日遷化齢八十五歳」。
葛原対月の墓(前列右)
「前總持 當寺十六世佛禎對月大和尚 禅師」
(おわり)
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[コバノガマズミ]
「短歌甲子園」全国から35校挑む 19日盛岡で開幕
第10回全国高校生短歌大会「短歌甲子園2015」は19〜21日、盛岡市で開かれる。全国15道県35校から約120人の高校生歌人が集まり、石川啄木生誕の地で至高の歌を目指す。
19日は同市玉山区渋民で開会式を行い、啄木ゆかりの地を訪ねる題詠ツアーを実施。20日は、団体1次リーグと個人題詠を行う。21日は決勝までを行い、それぞれ王者を決める。
団体出場校
▽北海道 札幌旭丘 旭川商▽青森 八戸 三沢▽岩手 盛岡二 盛岡四 盛岡商 花北青雲 沼宮内▽宮城 宮城一 仙台 気仙沼 名取 小牛田農林▽秋田 秋田 横手▽福島 会津若松ザベリオ学園▽茨城 水戸葵陵 結城二 並木中教校▽群馬 高崎北 高崎商大付 太田東▽埼玉 星野 東野▽千葉 渋谷教育幕張▽神奈川 横浜翠嵐 横浜▽山梨 甲府南▽岐阜 飛騨神岡▽三重 高田 鈴鹿高専▽福岡 福岡雙葉 福岡女学院 須恵
(2015-08-18 岩手日報)
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[ゲンノショウコ]
佐野市民大学「啄木短歌の魅力」
石川啄木は、たくさんの哀愁あふれるすばらしい短歌を残していることで知られています。今回の講座では、そのすばらしい短歌の魅力について、みんなで一緒に学んでみましょう。
『啄木そっくり』がキャッチフレーズの大室先生が、お話しします。
※手話通訳あり
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ハマナスの赤い実
「石川啄木と野辺地町」
今井輝夫 啄木歌碑建設の会常任理事
- 啄木の日記や手紙を読むとき、そして、啄木の生涯を考えるとき、野辺地町が啄木にとっていかに大きな存在であったかがうかがわれる。
『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著
資料『啄木と野辺地』
歌碑建立にあたって/野辺地町啄木歌碑建設の会刊(1962年(昭和37))
中央一番高い山が「八甲田大岳1584m」、すぐ左が「赤倉岳1548m」。
・啄木と「八甲田山雪中行軍遭難事件」
1902年(明治35)1月29日、岩手県立盛岡中学校4年、15歳の啄木は、ユニオン会有志と「岩手日報」号外(青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件)を売って義援金を募り、足尾鉱毒地の被災者に送った。
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啄木は26歳で逝ってしまった。
若すぎる、短すぎる、せめてもう少し。
勝手なことをいってみる。
しかし、十分生きた。
人生は年月の長さだけでは測れない。
とも感じる。
啄木は懸命に生きた。
文字通り命を懸けて生きた。
赤裸々に生きた。
かなしみといはばいふべき
物の味
我の嘗めしはあまりに早かり
『一握の砂』
先んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老ゆ
『一握の砂』
津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子
『復元 啄木新歌集』近藤典彦 編 桜出版
「一握の砂以後」(四十三年十一月末より)
「仕事の後」
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(「おわり」を訂正し <その12> へ つづく)
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歌碑の向こうに見える野辺地町と野辺地湾
愛宕公園から見る海は意外に近い。
啄木の野辺地訪問 書簡より(『石川啄木全集 第七巻』 筑摩書房)
*書簡のため、実際に訪れた日とは異なっている*
一度目
・1904(明治37)年
九月二十九日青森より 前田儀作宛
(略)
途次野辺地駅に下りて、秋涛白鴎を浮ぶるの浜辺に、咲き残る浜茄子の紅の花を摘みつゝ、逍遥する事四時間。正午少しすぐる頃再び車中の人となりて二時青森に入りぬ。(略)
青森市にて 啄木
前田林外様
十月十一日小樽より 小林恒一宛
(略)
三四時間野辺地が浜に下車して、咲き残る浜茄子の花を摘み、赤きその実を漁童と味はひなどして再び車便一駆青森に着、その夜そこに冷たき夢を結び申候。
(略)
北海小樽にて 啄木
翠淵大兄 侍史
ハマナスの青い実
二度目
・1906(明治39)年
二月二十八日盛岡より 小笠原謙吉宛
(略)
とある暁、夜汽船を青森港に錨投げさせ候ひしより、父が居る野辺地が浦に立ち寄り、又故里の方へも泊りあるきて、四五日前帰宅。
(略)
石川啄木拝
小笠原迷宮様 御侍史
三度目
・1907(明治40)年
八月八日函館より 宮崎大四郎宛
(略)
夕刻再び車中の人となりて野辺地に下り、凹凸極まりもなき道を腕車にゆられ乍ら、常光寺と申す禅院にまゐり候、八十二歳なる老僧は乃ち我が伯父君にして、父も此処にあり、老母は僕よりも早く着し居候ひき、其夜の心地は宜敷お察し下され度候、
(略)
啄木生
郁雨大兄 御侍史
(つづく)
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歌碑を示す標柱
右後ろにあるのが啄木歌碑。
『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著
啄木の母カツの兄は葛原対月という曹洞宗の僧で、父一禎の師僧でもあった。対月が平館村の大泉院の住職として赴任した時に一禎はその薫陶を受け、のち対月が盛岡の龍谷寺に移ると一禎もそのあとを慕って龍谷寺の役僧となった。二十五歳の若さで一禎が日戸村常光寺の住職になれたのは対月の尽力によるといわれる。
対月は二十五年間龍谷寺役僧を勤めたあと、明治二十八年六月に青森県上北郡野辺地の常光寺住職に転じたが、生活苦に耐えかねた一禎はたびたびこの寺に師僧を頼って身を寄せた。このため啄木もまた何度か同寺に立ち寄っている。
このゆかりから昭和三十七年五月四日、野辺地町啄木歌碑建設の会が中心となり、常光寺にほど近い愛宕公園の中腹に啄木五十回忌記念として歌碑が建立された。
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや
啄木
碑石は啄木の故郷の姫神山から産出した黒みかげ石、文字は啄木自筆からの集字拡大である。
<碑陰>
石川啄木が明治三十七年九月廿九日初めて野辺地町を
たずね「・・・野辺地が浜に下車して 咲き残る浜茄
子の花を摘み 赤きその実を漁童と味わいなどして・
・・」と友人へ報じている
伯父葛原對月が常光寺住職として十五年間在住し 父
石川一禎も この師僧を慕って数年間身を寄せ 啄木
もまた数回訪れて数々の文献を残された 我が町は県
下唯一の啄木ゆかりの地といえよう 天才詩人の琴線
にふれたつぶらな浜薔薇の実は今も十符が浦の潮風に
さゆれている
ここに啄木没後満五十年を記念し 万人に愛好されて
いる啄木文学を顕彰し ゆかりの歌を刻みその面影を
しのぶよすがとした
昭和三十七年五月四日 野辺地町啄木歌碑建設の会
盛岡
高橋仁助刻
(つづく)
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[セミ]
平成27年度 啄木学級故郷(ふるさと)講座「函館と啄木」
石川啄木が教壇に立った旧渋民尋常小学校校舎を会場に,「啄木学級故郷講座」を開催します。 今回は,函館市文学館の藤井良江館長を講師に迎え,函館における啄木132日間の足跡についての講演などを行います。
〒028-4132 盛岡市玉山区渋民字渋民9
石川啄木記念館 啄木学級係
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「本家 啄木の息」は、下記のリンクでご覧になれます。
・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料
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