22

になってしまった。22年目を元気に迎えることができて大変嬉しい。けども実は、誕生日って別に本人は何もほめられるべき点はないように思う。じゃー誰を讃えるのかっていうと、おかんではなかろうか。22年前の今日、いてーよとか思いながらも産んでくれたわけで、そこから俺の人生絵巻が始まったわけで、やはり今日はおかんに感謝すべき日な気がする。おかん偉業達成記念日みたいな。おかんからプレゼントをもらうのは実は逆ではなかろうかか・・・とかいいつつケーキを買ってもらってにゃふーんってなるんだろうな、愚息な俺は。
研究について語りあいたい。どの院に行きたいのか。その分野の何が魅力なのか。将来どうなりたいのか。これから世の中どうなるのか。各人の進む方向のリスクはいかほどか。ベネフィットはいかほどか。総じて、生きる上で何が大切か。残りわずかな大学の学部生活で何を学ぼう。何が必要。精神的にでも、物理的にでも。いろんなことを、話したいので、4年で飲みましょう。研究の概要をレジュメにして配りあうみたいなまじめな感じでいっかいみんなで飲みたいなー。飲まなくてもいいけどー、単純に酒は飲みたい。

 教育基本法と情報元

教育基本法の改正に反対です。国を愛する心を涵養するといった趣旨が改正後に盛り込まれるという点についてだけちょっと考えてみる。他の論点は不勉強ゆえ実は知らない。そもそも国を愛する心を涵養すること自体を道徳的によいこととするのか否かという問題と、それを法律として定めてよいのかという問題があると思う。まずこの二つを峻別しよう。前者については俺は肯定的だ。日本という国が事実存在し、そのことによって多大な恩恵を受けているのだから日本らぶって思うことをよしとする考え方は妥当だろう。日本の歴史の光だけを教えればよいというものでもないし、影だけを教えればよいというものでもない。その両方をバランスよく知ることが大切だと思う。なぜか。それは日本を愛しているから。日本へのらぶがあるからこそ、今後の日本をよくしていきたいという思いがあり、そのためには客観的中立的な情報が、よりよい方向性を考える上でももっとも有用な情報であろう。美化したされた情報も、卑下した情報も、情報の鮮度が低いという点では変わらない。で、今の歴史教育はどうかというと、ぼちぼちバランスが取れていてよいと思う。自国を卑下しているという人がいるが、果たしてそうか。中国と比較して相対的に卑下しているのは確かだろうが、絶対的に見て、本当に過度に卑下しているといえるだろうか。俺は、中国が過度に歴史を美化していると捉えている。つまり、情報の鮮度が低い。日本が教育というツールを通して子供たちに教える情報の鮮度が完全に正しいとは思わない。けど、特に近代史において歴史的によかった点と悪かった点の両方があるということを、あるいは両方の捉え方があるということを子供たちが肌で感じられるような状態は、望ましいと思う。逆説的かもしれないが、教科書をもっと日本すごいぜ風に変えようとする動きがあって、でもそれはまずいんじゃねっていう動きもあって、それらがせめぎあっている今の状態は、多様な価値観、多面的考察力の養成という点からもけっこういい環境なのではないかと思う。さらにいうと個人的には自国の誇りは近代に求めなくてもよいと思ってる。むかーしむかーしからこの国でうーん自然は神ですねーとかいいながら生活してきた人の子孫が自分なわけで、その長い長い歴史というか、そうやってバトンが手渡されてきたっていうことだけで、十分にこの国を愛する理由になると思う。俺だけかもしれないけど。自分がもし異国に生まれたら、その国を愛したであろうことは容易に想像できる。この国に生まれたから、この国で育ったからこの国がすきだというだけのことではないだろうか。その歴史に影があったとして、らぶが落ちると思っているのだろうか、官僚は。それでも俺は、すきですよ、この国が。俺だけかもだけど。
閑話休題歴史教育はまーいいねん。正直よく分かってないし。教育基本法ね。これは後者については反対ですねん。そもそも「法」ってのは、「国家権力による強制力をとおもなうもの」でしょ。ある価値観をよしとする道徳的風潮、道義項目はよいと思うけれども、それに強制力を持たせたらさすがに危険でしょうと思う。というか、軍をもちたちという思いが見え見えだし。さっき国を愛しているといったけれども、その何倍も家族を愛しているし、子供へのらぶに比べたら国へのらぶなんてぷーなわけです。で、戦争を繰り返さないというのがちょっと前の日本の先輩からのメッセージにわけで、そのことは十分に理解している。国民という集合体レベルで瀕死になりながら手渡されたそのバトンには、「戦争ありえん」と書かれてあったはずだ。戦争しない方がよいというのは万国共通の思いだろう。戦争はれっきとした政略の一つという人も、宗教のための戦争は正しいという人も、それが起こらないに越したことはないという点は共通だろう。日本はどうやら戦争を全面的にやめたことになっている。俺は戦争に行きたくないし(世の中がどう変わっても絶対行かない)、子供にも行ってほしくない(わが息子は特攻とかして死にそう)。だから、戦争につながる可能性は出来るだけ排除したい。国を愛することを教育基本「法」に盛り込むと、国を愛するという名目のもと、今までタブー視されていたあらゆる事柄に強制力を伴わすことが出来るようになる危険性がある。個人的には単なる可能性ではなく、蓋然性があると思っている。もちろん、そんなことにはならず、国家斉唱しましょうレベルでとどまるかもしれない。でも、最悪の事態への、少なくともその方向付けが可能である点に蓋然性が認められる限りにおいて、この法改正には賛成できないなーと思う。
ところで、本郷にて民青同盟(共産党?)とかいう怪しげな組織が同じく教育基本法反対みたいなビラをおいていたりする。はっきりいって、民青同盟ってよくわかんないし怖いイメージがある。だから、書いてある内容に対して天邪鬼になりがちだ。しかし、事の本質は言っている人の所属によるものではない点、注意したい。ストップイラク戦争とかいう運動もそうだが、内容には賛同できる部分もある。が、やり方というか、やっている人の醸しだす雰囲気が怪しすぎるため、その内容は偽であると逆にきめがちだ(俺は)。ここで言いたかったのは、怪しげな団体のビラを読もうということではない。怪しげな団体が言っているからそれはウソだーと思うのはちょっと待たないとなーということだ。自分で冷静に分析し、それなりの結論を出し、その上で同じく自分なりの結論をもった(少なくとも一定の知識を持ち、それについて考えた人)と議論を重ねて、よりよい結論になっているのが望ましい(実に教科書的なまとめだが)。