匿名と吐き出し

ブログを始めたころの自分の日記を読み返してみたのだが、文章下手とかはさておき、ちょっとびっくりした。なんつうか・・・、

ブログは匿名の私だから、匿名の私がに何が起こっても本体は影響が無い、のは最初のうちだけらしい。ぐみという名で書き記す日常が増えれば増えるほど、私がぐみ本体である割合が大きくなっていたようである。いまや、ぐみを捕まえると私の何割か(それでも、何割か)は捕まるのだ。

読み返しで私が見た「ぐみ」は、何年も何年も、下手すると物心ついたときから溜めまくった私の情熱が集約された人物のようだった。
そりゃそうだ、ずーっと言いたくて言う術が無かったことを吐き出す人格だもの。な。





・・・で、ぐみが吐き出しをしてよかったかどうかというと、私の場合、断然よかった。吐き出しがあるとないでは、体の健康状態がマッタク違うと思った。私は私を取り巻く環境に無視されるという状況に幼いころから病んできていたから、吐き出すことは、無視を否定することだった。

しかし大人になってから自身に受ける無視は、必ずしも周囲や環境のせいではない。だから大人になってから吐き出しをすると、自身や周囲の圧力で、傷つくことが多い。

傷つかないようにコアな部分の吐き出しをするには、信頼関係の上での吐き出しというのが必須だと思う。吐き出しを必要として苦しんでいる状態では信頼関係を築きにくいから悩む、という根本的な問題はあるのですが。

私は、長年苦しんだ後、信頼関係の上でのコアな部分の吐き出しはヘソオーさんに向けてするようになった。今もそうである。
その後それでは飽きたらなくて、私の吐き出したい相手は家の外全てに向かっていった。(今もそうである)。それではじめたブログだし、体験談でぐみはシッカリ吐き出しを全うしていた。でもぐみはちょっと緊張が強いようだった。
緊張は、吐き出しの相手との関係の不安定さに起因する。
家の外の世界もまた、信頼関係ありきなんだろう。傷つかないようにというよりも、傷に強くなるようにである。

咀嚼

フラバ注意ね






(以下、ある人の言葉を受けた内容になっています。どこを引用しているかきちんと内容を確認していませんけれども、頭に残っているフレーズを引用しています。)

たった一回の暴力で人は壊れる、
だけど暴力を振るった側にとってその一回は「何の足しにもならない慰み」である。

猫なで声を出しながら一人きりでいるときの私を狙った兄、私の生活を「心配だから」といって追い回した両親、彼らは全然慰められていない。

なのに私は壊されるのだ。慰みに。私の両親と兄は私を慰めにしたが、私は壊れても、彼らにとっては何の足しにもならない。足しにならないから、不満足だから、追いかけてきたのだ。彼らは何度でも私を殺す。

私は慰み者ではないが、彼らは私を慰み者と見ている。多分いまだにそう見ている。迷惑極まりない。

2月といえば母の二度目の手術があると以前父が書いていたはずだ。

価値観

ママ=育てる存在としての親、への価値観が、自分は急騰していた。

自分の親が壊れている反動で、頭の中で世間一般的な親のよいイメージが一人歩きしたのである。

さて最近自分はもう一個やらかしていた、境遇を分かち合う仲間への価値観である。私は自分の持つ体験の苦しさへの反動で、体験を認め合えるのが仲間であると考え仲間を探した。
実際には、体験を認め合うだけでは仲間ではない。時間と空気を共有して、相手を知らなければならない。

仲間を求めて急く気持ちは、このブログを始める前からあった。
急く気持ちに疑問を抱いたのは、似た体験のその人(仮にXさん)と私の頭の中にある「仲間像」に、ズレを感じたときからである。

私の頭の中のXさんは違う印象の人であった。
Xさんの語る私の人物像もまた、私と別人のようであった。

ズレを感じたなら、正しい像に軌道修正しなければならないのだが、仲間を理想化して急く気持ちが強くければ強いほど、それが難しくなる。(注:私が難しかった、ということしか知り得ないが。)
また環境的にも、ネット中心で築く関係では齟齬や不平等が修正しにくいと感じた。*1


ちなみに、私が大学時代に仲間と思っていた人々は、時間と空気を共有したが、体験を認めあってはいない。これからどうなるかは、わからない。

これは飽くまでも、私の世界観の話である。

あ、サバイバーと名乗るのをやめてみました。否定ではなく、私がやめてみたのです。

*1:このへん、友人は「受け皿」と表現していた。まあ、ネット以外のリアル人間関係だと、齟齬不平等へのありえない展開が待っていることも少なくないんですが。たとえば、私の受け皿には以前両親と兄が勝手に乗っかってきて、私の皿がえらいことになっても立ち退きませんでした。容量オーバーの確信的暴力です。私はいまだに、私の皿の上の幻影に悩まされます

マカは良い

失恋から失恋したと気がつくまでの間、まず少眠少食になり月経不順が起き、その後過食嘔吐が短期再発した。失恋祝いのケーキもなんだか吐いてしまってもったいなかった。今まで月経が止まる事はあっても短期間で月経が来る事はなかったので、けっこうビックリした。失恋つっても我ながら巧妙*1に意識に組み込んだため気付くのに相当!苦労したんだから、体もそれなりの反応だったとおもう。

で、今は睡眠時間はちょっとずれたが、サトイモなどをちゃんと食って消化している。サトイモは、調理したその日のうちが華だ。翌日になるとえらいつまらない味になってしまう。昨日はバレンタインのケーキをヘソオーさんに買ってきてもらい、半分ずつ食べた。美味であったし、すぐに消化してしまった。

あ、マカのサプリが私の体によく合う。飲むといい調子

*1:架空のママへ全力をあげて恋するために、私は通常のセクシュアルな恋を一人の人にぶつけきって、その人以外との人間関係を全て無恋愛地帯にしてたですよ。ママへの恋とセクシュアルな恋とを上手いこと両立させてたのだ。しかも、セクシュアルな恋人からも家庭らしさを求めていた。(たとえば、恋人の家族を『いい家族なのねー』と決め付けたり妄想を膨らませたり)。また私が架空のママへ求めていたのは、“虐待しない家族”だけではなかった。架空のママに育てられていたはずの“理想の自分像”も託していた。架空のママが架空だと知る手がかりになったのは、私の友人への「妬み」ですた。そんなこんなで、無恋愛地帯で育んだ架空のママとの恋を失ったと知った瞬間、自分が無意識に作った世界の巧妙さが一望できたのです。

(珍)無類のファンタジー好きとして

このあいだ、友人の厚意(おごり)で最近上映している「高慢と偏見」を見てきた。今日は1940年制作の「高慢と偏見」をレンタルしてきたものを見た。実はオースティンの原作もちょいファンである。

この話は、恋愛・コメディ・推理がゆるーく絡まった、楽ーで、なんでもなーい、内容だと思う。映画では、画面内にニワトリやガチョウがわらわら歩いていたり、馬がじっと止まっているところに糞が落ちていたりする描写があってたまらニャイ!

また、ガヤガヤかつアッケラカンとした家庭の話というのがすでに私にとってはファンタジーである。家族ドラマが海外などの異文化ものであれば、より虚構度が高まり、安心して見れる。姉妹が同じベッドで「あんたは誰が好き?」とか言いながら眠りにつくのなんか、たまらニャイ!

高慢と偏見」映画の新しいほうと旧いほうを見比べたところ、新しいほうが風景や衣装がに説得力があり、旧いほうがコメディ色が強くて楽チン度が高かった。


こういった高慢と偏見若草物語といった「家族ファンタジー」が女の子向けであるとされる理由に、女の子の学習する家庭像の多くが女の子本人にとってファンタジーでしかないという実情が絡んでないか。なおかつファンタジーがウケテルということは、実際の家庭が女の子にとってちっともいいもんじゃないって事の証拠になりはしないか。つか、私がそういう理由でウケてんのだけど。