手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

板画家 棟方志功

 棟方志功が福光町を引きはらって東京へ出ることになりました。
 いよいよ福光と別れ出発した日の情景を棟方は、『苦悶の日々』の中に書き残しています。その日、福光駅は、なごりをおしんで見送りに集まった人で溢れかえり、いつまでも旅立つ棟方の乗った汽車に、手を振りつづけていました。その光景が鮮やかに書かれ、懐かしんでいます。
 変人として近寄らなかった人達が、それ程、棟方となじみ合い、尊敬するようになった福光での生活は、棟方をも大きく変えたのです。「私は富山では、大きないただきものをしました。それは南無阿弥陀仏でした」と、生涯いいつづけ、芸業にも他力道があることにめざめ、その道を歩めるようになったことを深く喜んだのです。
                中略
 棟方は先の『歎異無深蓋』で、「己が為めに、己を念じ、案んじて、又は己れの悪の逃避として、この南無阿弥陀仏の称号を口にするばかりだ」といい、「真宗信徒的な〝おまかせ〟の安易は、この宗祖の願ったものではない」と断言し、「この土地の真宗の蔓延は、得欲をカバーし得る上の利己方便であったとさえ思われる」と切り捨てています。事実として、残念ながら教法に得心しないのに倣慢な僧侶や未信、不信の門徒さん方の中には「お互いさま凡夫じぢゃもんのお」と平然と口にする人も居りました。疎開間もない頃の棟方が許せなかったのも当然だったでしょう。
 目を転ずると、柳宗悦は「真宗素描」や「真宗の説教」(『柳宗悦妙好人論集』)の中で、もっと詳細に論難し、教団組織にまで論及しています。こうした発言は、親鸞の説いた教法の真実を明らかにすると、自ら見えてくる門信徒・僧侶の実態の闇なのです。私など生れながらに寺院に住む身には、聞くだけでも自責の念にかられる言葉ですが、よく「同行(又は後生願い)と栗の柱の真っ直ぐなのは見たことがない」といわれました。同行とは寺やお講の世話役のことで、教団のいわば中核体を指します。顧みれば赤の至りです。それ故、古来、まことの念仏者は国に一人、郡に一人ともいわれ、真宗は聴聞に極まるといわれていますが、絶対他力の法義、如来よりたまわる信心の真実を聞き通すまことの念仏者がいかに少ないかを、かの蓮如も「お文」の上できびしくいましめていられるのです。
【棟方志功・越中ものがたり 飛鳥寛栗 桂書房 P66、 P78、P79より】



日本を代表する板画家 棟方志功が、約6年間、戦時疎開していた福光町(現在:富山県南砺市)滞在期間の出来事が紹介されています。
志功は、「私は富山では、大きないただきものをしました。それは南無阿弥陀仏でした」と語っています。念仏者でもあったのです。非常に興味深いところです。
今日も南無阿弥陀仏。



棟方 志功
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20130224