『 CLANNAD 』と比較対象となりそうなゲーム作品について その2

My Merry May 』『 My Merry Maybe

全年齢対応について

CLANNAD 』は、これまでの『 ONE 』『 Kanon 』『 AIR 』と異なり18歳以下購入禁止ではなく全年齢対応に変更されている。エロを目指さないということは、選択肢を選ぶ際に、プレイヤーの戦術として特定キャラクターをストーカーするような選択をする必要がないということである。すなわち、プレイヤーはゲームプレイの際に人との繋がりを必ずしも志向しない、ということになる。
一般に、エロゲーのコンシューマー移植などでエロ抜きかつキャラクター志向のシナリオ分岐型ノベルゲームが作られる際、そうした必然性の欠如を補うのは、「元はエロがあった」という認識を前提としてプレイする態度、キャラクター紹介に終始するOPや特定キャラクターと恋愛関係に至ったときのみ見られるED、パッケージや説明書のキャラクター紹介、CG閲覧コーナーにおけるキャラクター単位のアルバムページといったエロシーンがなくなっても残っている本編の外側の形式による目標の示唆、「キャラクターに萌える」というギャルゲープレイヤー側の能動的にキャラクターを志向しようとするプレイスタイル文化、そのような萌え文化の文法に則ったヒロインたちの魅力といった諸要素で、これらがヒロインという個人を追いかけることで物語が進行するという形に総合的に説得力を与えてきた。しかし、これらの要素はエロゲーギャルゲーにおいて「物語を読む」ことがノベルゲームの主目的であるとするプレイスタイルが次第に勢力を増してくるにつれ、その強制力が弱まっていくこととなる。具体的には、ヒロインと結ばれなくてもストーリーとして完成していればいい、という形でのアナザーが許容されるようになる。*1
こうして、エロゲーギャルゲー範疇のノベルゲームにおいて形式的にも内実的にもキャラクターを追い求める必然性が見失われていく中『 Kanon 』的な手法は形骸化していく。
一見すると『雫』の頃に戻っただけの話に見えるのだが、シナリオが重厚長大化していけば物語の分岐を見出し得る個所は爆発的に増加するわけで、そこにおいて「全ての可能性は等価」という価値観を投入してしまったなら、製作側にもプレイヤーにも負担が大きすぎて現実的には破綻する。*2
物語メディアという名目に特化したために(単価との兼ね合いもあって)短いシナリオに戻ることもかなわず、一方でプレイヤーが何を求めて選択肢を判断するかという判断基準(ゲーム性)の見極めも見出されないまま、マルチシナリオの手法はポスト『 Kanon 』という形で分散していく。*3
以下、盛大にネタバレ。

*1:僕と、僕らの夏』のDC版移植の際の有夏追加シナリオなどが典型。有夏をヒロインとしながら有夏と結ばれない、一夏の恋としての結末を迎える。もちろん、有夏と普通に結ばれるEDもPC版からそのまま持ち込まれているが、追加されたシナリオのほうが見栄えが良くなってしまっている。

*2:作品の「シェンムー」化。

*3:昔の日記から、分岐と選択の二種類の基準による分類。具体例も追記しておく。①複数のヒロインは全て一人のヒロインの一面の写像であり、全てのシナリオをクリアしていくうちに一人に収束する。選択肢が「選択」ではなく「分岐」として扱われます。>『 AIR 』『 CLANNAD 』、一連の「ループ物」など。②一人のヒロインを選ぶことで他のヒロインが消え、最後には選ばれたヒロインと主人公との二人だけの世界が残される。世界は「分岐」せず、「選択」した世界だけが残され、それ以外は消滅します。>『 Sense Off 』など。③複数のヒロイン同士が主人公を巡ってぶつかり対決する。ここで主人公は選ばなかったヒロインに対する罪悪感を感じ、選ばれたヒロインもまた一方のヒロインを気にかけます。つまり形而下と形而上に、現実と非現実に、肉体と精神に、分裂がスライドします。>『君が望む永遠』など。④両方選んでしまえ、ハーレムエンド。選択せず分岐しない現状維持。>『はじめてのおるすばん』など。⑤ゲーム放棄。選択も分岐もなかったことに。わはー。>わはー

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