さよなら国立競技場 1

2013年もたくさんの試合を見た一年でしたが、一番忘れられないのは、神奈川県の天皇杯予選、専修大学対神奈川県教員の一戦です。長男が神奈教で先発濃厚。次男が専修でベンチ入りの可能性あり、ということで、もしかしたら兄弟対決?ということもあったのですが、今季大学サッカー界でも最強とも言われている専修大を相手に、神奈教はどうなっちゃうんだろう?というのが正直な気持ちでした。しかもスケジュールの都合で止むを得ないとは言え、神奈教は酷暑の中の連戦。毎日鍛えている大学生相手に、それぞれ仕事を持っている神奈教の選手達にはちょっと酷な試合でした。

結果は2-1で専修。善戦というより、本当に神奈教はいい試合をしました。小さな観客席一杯のお客さんの前で(フリッパーズのメンバーや清流のサッカー部の選手達も大勢見にきていました)長男も気合の入ったプレーを見せてくれました。次男の出番はなく、兄弟対決とはならなかったのですが、まあなんというか、ホッとしたというのが正直な一戦でした。


試合後に専修の監督さんの所に挨拶に行く兄。「弟をよろしくお願いします。」ピンぼけなのは、わざとではありません。





その後僕は仕事で岩手県にひと月ばかり行っていたのですが、その間に、神奈川代表対青森代表の天皇杯本大会一回戦というのが青森県で予定されており、もし専修が来るようなら青森まで足を伸ばして見にいくか!と思っていたのですが、専修大は県の決勝で桐蔭学園大学に敗戦。いやいや残念でした。青森代表との試合に勝てば、二回戦は横浜Fマリノス戦。ユニバー代表4人、年代別日本代表2人という先発陣を揃えた陣容から言っても、ショートパスをテンポ良くつないで相手を押し込んで行くスタイルで関東大学リーグを圧倒して行ったサッカーの内容から言っても、マリノスとの一戦はあり得るなと思っていた関係者は多かったと思います。調整面とかあるんでしょう。ああいう攻撃に人数を割くやり方というのは、トーナメントを勝ち上がるのは難しいって言うのもあるのかもしれません。ただ、立派だなと思ったのは、ありがちな「守り一辺倒のサッカーに敗れた」といった言い訳を公には聞かなかったことです。これは後の大学選手権準決勝敗退後もそうでした。スタイルを貫いて勝つことを目指しているチームの心意気みたいなものを感じます。

蛇足ですが、次男が入学してからの約9ヶ月は、端で見ていて、息苦しくなるくらいの緊張感の連続でした。それは公式戦の前とかではなく、日々の練習に向かう緊張感です。Aチームはもちろん凄いのですが、Bチームに落ちると、そこにもまたすごい選手がぞろぞろいるという世界。布団の中で「毎日が戦いだ‥」なんてポツリとつぶやいてるのを聞いちゃったこともあります。ここ2、3年の大学サッカーにおける専修の強さを身近で垣間見たような気がしました。

さてさて、残念ながら専修対Fマリノスの一戦はならなかったのですが、全国できっとこんな悲喜こもごもが繰り広げられているであろう天皇杯。元日の決勝に残るのは2チームです。

さよなら国立競技場 2

国立競技場に初めて行ったのは、たぶん中1の時。『ペレサヨナラゲームインジャパン』だったと思います。ペレがニューヨークコスモスという当時アメリカにあったプロリーグの選手として来日。ベッケンバウアーも所属していたかもしれません。日本代表との引退興行だったと思います。

サッカーなんて町内のどこにも存在していなかったのですが、僕の中学に当時のサッカーどころ埼玉県から越境で入学してきたヤツがいて、その同級生が僕に最初の手ほどきをしたのです。初の国立も彼に連れて行ってもらいました。「アメリカのサッカーリーグなんてのは邪道で、本場は南米とヨーロッパ。」「ペレもベッケンバウアーも、もうピークは過ぎた選手。」なんて…。
バイエルンミュンヘンブンデスリーガアディダス、ダイヤモンドサッカー、ワールドカップ、クライフ、オランダ代表、ブラジル代表、サッカーマガジン高校サッカー浦和南静岡学園‥。それまで耳にすらしたことがないワードが次々に飛び込んできました。そうやってズブズブと深ーくて広ーい世界につかっていったわけです。

国立競技場ではその後釜本の引退試合や、マラドーナの世界デビュー、度肝を抜かれたワールドユース決勝、オフトジャパンのTM、バティステュータ擁するアルゼンチン戦。同じくW杯予選、対UAE戦。奇跡的に抽選に当たったJリーグ開幕戦と、まあそう自慢できる回数ではありませんが、その他にも代表の親善試合とか、ちょこちょこと行ってました。
そして、何と言っても天皇杯決勝。
今だに家族ぐるみでつきあいのある僕の中学時代の恩師が、教員組合のつてで天皇杯決勝のチケットを手にいれてくれて、今年まで20年以上に渡り、毎年送って頂いていました。
初めての試合は確か Jリーグが始まる前。ちょっと怪しい記憶ですが、日産対読売クラブで、延長で日産が優勝を決めた試合だったと思います。まだ小学校に上がる前の長男を連れて行きました。それからうちの元日の恒例行事になったのですが、その長男が、大学時代から実際にこの大会に出場するようになり、より親近感を覚える大会になりました。

昨年長い教員生活を終えた恩師から「今年が最後かな」と届いた今年の天皇杯決勝は、奇しくも2020年の東京オリンピックに向けて全面的に建て替えることになった現国立競技場で行われる、最後の大会となったのです。何年か前から、このチケットは二人の息子のモノになってしまったのですが、今回ばかりは別。「これは、目にとどめておかないと」と、がっちり着込んで、元日の朝、千駄ヶ谷に向かいました。

これも巡り合わせなんでしょうか、初めて生で見た天皇杯の優勝チームを母体としたクラブが今年の天皇杯を制しました。今季のJリーグで、最後の最後にひっくり返された、サンフレッチェ広島が相手だっただけに、Fマリノスとサポーターの喜びはひとしおだったでしょう。

試合のことに少しだけ触れると、広島は、相手が組み立てに入ると両サイドのMFも引いて5バックとなります。そしてその前に佐藤寿人を除く4人が引いてブロックを作るのですが、対する横浜FMは、FWとMFの後ろ(というか、中澤とドゥトラの間くらい。ほぼ最後尾)に中村俊輔がポジションをとっていました。誰もマークには来ません。相手エリアまで運ぶと、左から斉藤、右から小林が積極的にドリブルでつっかけて行きます。こぼれ球を中町、富澤が回収。相手を押し込んでる状況で、俊輔もスルスルと上がっていき、受けたボールを狭いところにピンポイントでパス。Jの各チームが手を焼いた広島の守備ブロックを破って行きます。 広島は寿人も、寿人へのホットラインもほぼ抑えられ、このゲームはなす術もないといった感じでした。

この日は横浜FMのサポーターの応援も見事でした。これは、20数年前にはなかった風景です。


日産が優勝した時は、確か木村和司さんと水沼貴史さんが、応援席の方に行って万歳していたような記憶があるのですが、まだサポータって言葉は浸透していなかったなあ。まあそんなことから始まって、それこそ、僕が初めてここに訪れた時のことを考えれば、日本のサッカー界はもう信じ難いほどの変化です。「ワールドカップは4年に一度で、その規模はオリンピックより上なの!ワールドカップの上に『サッカーの』なんてつけないの!」なんて例の同級生に教わって、ダイヤモンドサッカーを食い入るように見てた頃の自分に、会いに行って教えてやりたいです。
「おまえがおっさんになる頃には日本にもプロリーグができてて、韓国と共催でワールドカップをやっちゃって、すげえ才能を持った選手が次々にでてくるんだ。そこから飛び立ったやつらが、今見てるそのドイツのリーグなんかで何人も活躍してるんだぜ。」「しかもそこからイングランドマンUに移籍したやつが代表の10番つけてて、左のサイドバックインテルのバリバリのレギュラー。そんでもって、日本のエースは来季からACミランで10番つけるんだぜ!」「そいつらが、ワールドカップで優勝を狙うって真顔で言ってるんだけど、信じるか?」

きっと信じないだろうなあ。
当時、1FCケルン古河電工から移籍して行った奥寺康彦さんのことはもう夢のような話として受け止めていたのですが、専修サッカー部のキャプテン長澤選手は、大学卒業後にケルン入団が決まりました。この話も時代の移り変わりを物語る話題です。

いずれにせよ、この国立競技場で見られる天皇杯も、ここでの僕のサッカー観戦も終わりです。


長い間ありがとうございました。