AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫 た 1-4)
田中 ロミオ
小学館
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AURAは問答無用に面白い。この作品は、というか田中ロミオの手がけるものは、「こう面白い」「いやいやこんな面白さがあるよ」と色々な楽し見方ができる。AURAから見える「楽し見方」を3つばかり挙げてみる。

◆地の文の面白さ

文章が面白いから読んでて面白い。
これはやっぱり最初に持ってきたいと思えるぐらい大事なことだと思う。
「ロミオ節」なんて言葉があるけど、田中ロミオの文章って、それだけで面白いんだよね。


相性もあるのかもしれないけど、文章の上手い下手は確実にある。上手い下手じゃないかな。作家ごとの特徴というべきなのかも。
そしてその作家の特徴と、読み手の好みが合致した時に、文章は読むだけで心地のいいものになる。この出会いはどの作家とどの読み手でも当てはまるものではないので、貴重なもの。


で、この「作家の特徴」は、効果範囲がある。この効果範囲が広ければ広いほど、多くの人に合致することになる。
逆に、一部にだけ受けるものもある。


要するに、
「面白いという感覚は人それぞれだけど、多くの人に面白いと思わせることができる文章だよ」
ちゅーこった。
ライトノベルというジャンルに絞ってみると、田中ロミオの文章は、ライトノベルを読む層の多くが好む文体なんだと思う。


文章が「合う」と何が良いか。
読書が楽しいんだよね。AURAは360ページってゆーちょっと手の出しにくい気もしてくる厚さだけど、それをさして苦もなく読み切ることができる。
西尾維新なんかもそうなんだけど、これは文章の効果範囲の広い作家じゃないと、だれる。イヤになる。「《バックスクリーン直撃の大ホームラン、ただし始球式》みたいなっ!」みたいな、あからさまなそれでなくとも、一冊を通して、全体のレベルが高い。


感覚で分かってもらえるといいな。AURAでもいいし、西尾維新のなんでもいいや、持ってる人は本棚から出してみて。それで、テキトーにページを開いてみて、その見開き2ページ読んでみそ。


ね。「楽しい」でしょ。
こういう読書、私も結構好きなんですが、「いつでもさっと開いて、ちょっと読んですぐ楽しい」ができる作家さんとの出会いは貴重なものですよ。
そしてAURAは、そういった出会いの楽しさを教えてくれる。文章を読む楽しさを教えてくれる。


AURAを貸し付けた友人は、「面白かったよ」と言いつつも、「けど長ぇ。余分だよね文章」とか言ってましたが。(笑)
余分でも楽しい。読むこと自体が楽しい。これ、いいところ。

◆「作り物だから許される楽しさ」と「現実を取り込んだ厳しさ」が入れ替わりながら同居する

学校のクラスという集団で、中二病は嘲笑の対象になる。
しかし、AURAで中心となるクラスは、中二病罹患者が全34人中16人。


この状況によって、「作り物らしいコメディタッチの楽しさ」が生まれる。「うおお、痛い、イタいぞぁぁぁ見てる方がキッツいってどういうことだぁぁあぁ」と思わずにいられないほど極端に中二病罹患者の行動がクローズアップされるシーンは、胸をかきむしる楽しさ。


けれど、それだけではない。
中二病を露にしながらも、罹患者グループがクラスの最大勢力であるため、現実のように、囃され、嘲笑され、嘲弄されることはない。


しかしけれどもだけれども。「一般人」は、ついに噴火する。

「まず織田、おめーからだろ。眼帯取れや」
 織田は停止したまま。織田流第六天魔剣はどうした。
「……織田さんさ、俺も取った方がいいと思うけどな」
 高橋も全方位でいい顔はできないと判断し、山本に味方しはじめた。
「それ俺が捨ててやるよ」山本が織田のポニーテールをつかんで、顔を持ち上げた。泣き顔を見た山本が笑う。「なに泣いてんの? ばかくせ」
 その手が眼帯にかかる。織田は耳をつんざく悲鳴をあげた。
「やめたまえ山本君!」ついに妄想戦士のひとりが立ち上がった。白ランの木下だ。「婦女子に力尽くなど男のすることではないぞ! 我が輩の予言によると、この言い争いの原因は次元を超えた――」
 次元を超えた、のあたりで俺の背筋も凍りついた。だからだ。だから同情できない。

(p205より)

本当に同情できない。(笑)
意外とこういうシーン……ここまでひどくないけど、「あぁ、そうそう、現実的にはこうだよね」という、本当に「痛い」ところも作品中で散見される。


「ハハ、中二病おもしれー」というコメディをクローズアップする部分と、「いや、キッツいわ」というリアルな部分。この落差が面白い。

◆テーマについて

めたらのべ。テーマはここにあったと思う。ライトノベルを読んでいる私たちを。ライトノベルを書いている自分を。否定する。
私はそれを、ここから読み取った。主人公が、中二病を憎み憎悪し毛嫌いし、嫌悪し唾棄して忌み嫌うところ。

 俺は憎む。稚拙な自己顕示欲を、未熟な精神を、うかつな発現を。愚かしい無防備さを。
 みんな努力して〝普通〟になった。努力を放棄した者、安易なヒロイズムに罹患した者に、救いなんてありはしない。駆逐されちまえばいい。

(p205より)

 もう軽い嫌がらせじゃない。本気でイジメにかかているとしか思えない。我が身が誰より可愛い俺でさえ、画鋲にはムッとする以上の腹立ちを感じた。
 でもすぐにブレーキがかかる。心のシニカルな声が、良子がイジメられて、だからどうしたと囁いた。
 助ける? 本人に変わる気ひとつないのに?

(p237より)

まぁよく言われる、「いじめられる方にも原因はある」ってヤツですわな。


努力はしたのか。いじめられないための努力は精一杯したのか。目立たないようにしたのか。普通であろうとしたのか。均質になろうとしたのか。溶け込むように努力したのか。
してないのか。なら、受け止めろ。
そーゆーことなんだろーな。


楽して手に入る妄想の世界の中だけで、「理想通りの自分」を偽り上げて満足してんじゃねぇよ。それお前じゃないから。おまえがいるの現実だから。
現実で血反吐を吐いて努力しろ。努力しろ。正しく努力しろ。
そして現実で「理想通りの自分」になれ。
苦しんで苦しんで、現実という何よりも強大な敵と闘え。
見えない敵と戦ってきたんだろ。現実も、十分目に見えない敵だろ。
そーゆーことなんだろーな。

こーゆーことが分かってても、なんでゲームの方がライトノベルの方がエロゲの方が楽しいかって言うと、やっぱ楽だからなんでしょうね。たのしいとラク、両方「楽」だしね。

◇「普通」って何さ

でも。「ライトノベル」だから、救いも残す。淡い淡い救いを残す。それは優しい夢。

「はは」
 笑ってしまう。なんだよ。なんだよ。みんなけっこうイタかったんじゃないか。
 想像もしてなかった。こんなイタさを――ごく一時の気の迷いとはいえ――楽しむことができている自分を。十分前まで授業をしていた教室で、タガの外れた大騒ぎ。信じられない。信じる力は妄想をワンタッチで実現してくれはしない。だけど大勢が信じるようになることで、価値観の方は無限に変化するんじゃないか? 呪いがある集団にとっては立派な文化として機能するように、妄想だってなんらかの未分化な可能性だったりするんじゃないかと。いつか自分の使い方がわかる日が来る。その時こそ、俺たちは本当の戦士になれるんだ。きっと。

(p345、346より)

きっと。その言葉にすがらない強さを、この作品では言いたかったんじゃないの、なんてね。