「インパール」高木俊朗

 高木俊朗(1908年7月〜1998年6月 東京生まれ)は、ウィキぺディアの略歴によると、「太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。従軍記者の体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意する。」とある。以前、「特攻基地知覧」(角川文庫)を読んだことがある。本書「インパール」は古書店で購入した。文春文庫1975年7月刊である。
 「インパール」は、インパール作戦についての著述の最初のもので、以下、『抗命』『戦死』『全滅』『憤死』などインパール5部作がある。
 インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、「1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋(蒋とは当時の国民党政府の蒋介石のこと)ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。」
 雨季の時期に、充分な装備も補給も無く8万6千人の将兵が動員され、帰還時の人数は1万2千人になっていたというから、如何に無謀な作戦だったかが知れる。
 敗色が濃厚だったこの時期、東条首相はじめ作戦の指揮を執った牟田口司令官らが戦況挽回のために起死回生の策としておこなった作戦は、最初から勝算などはありはしなかった。
 著者は「序にかえて」で「私は戦争責任とはなんだろうか、と考えた。私が見聞きしてきたインパール作戦の無謀を強行した愚将らと、それを“補佐”したという幕僚らは、国民に対して責任をとらなくともよいのだろうか」と問いを投げかけている。当時の彼らにとって大事なのは、天皇への責任と自己の名誉だったのだろう。死に負傷した将兵は、将軍にとっては捨て駒にしか過ぎなかったのだろう。行軍・闘いの中で雨季の泥沼をはいずり回って死んでいった将兵ありさまを読むと、そうとしか思われない。
 「日本兵は、たこつぼにはいったたこのように、じっとひそんでいるだけである。兵隊の皮膚は、水びたしになっているために、白く変色し、べろべろにただれた。内臓は、かびがはえて、腐食し、変形していくように感じられた。」
 「少し先のくぼ地には泥水がたまり、ごみの山をひたしていた。そこには、ぼろきれのような軍服と、戦闘帽と、帯剣がつみかさなっていた。よく見ると、兵隊の腐りかかった肉体が、土くれのようにかさなり合っていた。屍臭が厚く地を這ってくる。おびただしい死体の山であった。その道の先に、また、一人。戦闘帽の下にある顔は、人間ではなかった。頭蓋骨に皮膚がこびりつき、干物のように硬くなっていた。」
 8月は敗戦記念の月、というわけで本書を読んだ。多くのマスコミは「終戦記念日」というが私には違和感がある。



 上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品の版画


俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
  ○竹になりたや 紫竹の竹に 元は尺八中は笛 末はそもしが 筆の軸
  ○竹になりたや 桐生の竹に 繻子や綸子の 綾竹に
  ○わたしや浜松 寝入ろとすれど 磯の小浪が ゆり起す