モスクワ・クーデターの夜(ロシアはどこに行くのか)

tigerland2005-07-31

90年末、「独裁が始まろうとしている」と警告して、中央政界を去ったソ連外相のシェワルナゼ。(ゴルビーの右腕として、「新思考外交」をし、冷戦を終わらせた人物です。名前が長いのでシェワちゃんと呼びましょうか)

その後、91年8月のクーデターが起こり、ゴルビーは休暇先のクリミアで拘束されました。

しかしモスクワでは市民たちが立ち上がり、色が白いので「ベールィ・ドーム」(英語で言えばホワイトハウス」)と呼ばれたロシア議会ビルのまわりにバリケードを作りました。

武器をもたず、その辺の道路標識とか、レンガとか、板切れとかを持ち寄って。

その建物の中には初めての民主選挙でロシア大統領になったばかりのエリツィン、シェワちゃん、副大統領のルツコイなど、当時「民主派」と呼ばれたリーダーたちが立てこもり、それを守る形で市民が手をつないでビルを囲み、粗末なバリケードの中、眠らずに夜を過ごしたのでした。

僕がその数ヶ月前にホームステイ取材していたロシア人一家のご主人と奥さんも、まっさきにそのバリケードに駆けつけ、最初の2夜をそこで過ごしていました。

僕はちょうどアエロフロートでベルリンに取材に行く予定で、モスクワ経由のチケットを持っていたので、モスクワ空港でビザ係のお姉さんと交渉してトランジットビザをせしめ、白タクで彼ら夫婦のアパートに向かいました。

それはクーデター3日目の晩でした。

彼らのアパートにたどり着くと、ちょうどバリケードから戻ったばかりの夫婦がウォッカで乾杯していたところでした。

「ちょうどいいところに来た。バリケードを包囲していた軍が引き上げたんだよ! それで戻ってきて祝い酒を飲もうとしてたところだ。君も一緒に乾杯しよう!」

そう言われて乾杯した後、すぐに車でバリケードまで連れて行ってくれました。彼らの20歳の娘さんはまだ仲間たちとバリケードにいるそうです。

クーデターを起こした連中の命令でバリケードを包囲していた軍の主力部隊はすでに引き上げていましたが、モスクワ川をはさんで「ホワイトハウス」の向かい側、橋の袂にたどりつくと、1、2台の戦車が残っており、薄暗い黄色い街灯の光の中、不気味な姿を浮かび上がらせていました。

そこから警備している民主派側の警官だか自警団に、夫妻が身分証明書を見せ「日本のジャーナリストを連れてきた」というと、すぐ通してくれ、橋を徒歩で渡ってバリケードへ。

タイヤの空気を抜いたバスや、板きれ、鉄の棒、レンガ、舗石、道路標識などなど、手に入るあらゆるもので作り上げたバリケードを越えて中に入ると、そこでは人々を支援するためにミュージシャンたちが夜通し交代で演奏しており、異様なサウンドのロシアン・パンク・ミュージックが耳を聾するようなボリュームで流れていました。黄色い照明と、バリケードに満ちた緊張感とあいまって、それは非常にシュールな雰囲気を醸し出していました。

そのステージのようになっているわきを、写真を撮りながら、さらに奥に進むと、大勢の人たちが、夏とは思えぬ寒さと小雨から身を守るため、体にビニールのゴミ袋を巻きつけたりして、手に手をつないで「人間の鎖」を作って立っていました。

軍の主力部隊は去ったとはいえ、KGB特殊部隊アルファが攻撃してくるかもしれない、という情報があり、人々の顔にはまだ緊張感がありました。

(この写真を、クーデター中は夏休みで故郷のモルドヴァに帰っていた友達のロシア女性に見せると「モスクワっ子って、ふだんは生活に疲れきった、覇気のない表情をしているけど、ここに写っている人たちは、皆美しい顔をしているわね」と言ってました。)

その人間の鎖のさらに奥にいくと、焚き火をたいて交代で暖をとったり、市民からさしいれられたパンなどを配っている場所がありました。

そんな中、僕も夢中になって、シャッターを押し続けていました。

すると、スピーカーからロシア語でなにかアナウンスが流れました。そして次の瞬間、バリケードにいた全員が「ウラー!!(万歳)」と叫んで飛び跳ね、心からの笑顔を浮かべ、隣の人と抱き合ったり、キスし合ったりし始めました。

そう、「ゴルビーが解放された」というニュースが流れたのです。

そこにいた誰もが、それまでの緊張した顔つきから一転、心の底からの喜びと安堵の表情を浮かべていました。

もうKGBも襲ってこない、民主主義は勝ったんだ、自分らの行動がその勝利をもたらしたんだ、と。

(後日判明したのですが、KGB特殊部隊アルファは実際にバリケード攻撃命令を受けていました。僕の知人でアフガン帰還兵だった青年は、仲間と組織した自警団でKGB狩りに出かけ、「ホワイトハウス」とモスクワ川を挟んで対岸に位置するウクライナホテルで、KGBの隊員を逮捕しています)

その翌日、エリツィンは同じ「ホワイトハウス」の2階のバルコニーから勝利の演説をしました。僕も何とかそのバルコニーにもぐりこみ、数十万人の市民が歓喜の大歓声を送っているのを目にしました。

まるで、ロバート・キャパの撮った有名な写真、『パリ解放』を見ているようでした。あまりも多くの人々の、喜びに満ちた顔、顔、顔。自由と民主主義への信頼、新しく生まれ変わるこの国への期待。そうしたすべてがそこにはありました。

そしてクーデターの3日間は、夏なのに小雨が降ったりして非常に暗く寒い天気の日々が続いていたのに、この勝利の演説の日には、それまでと打って変わって空が晴れ渡り、太陽が広場に集まった人たちの顔を温かく照らしていたのです。

エリツィンだけでなく、シェワちゃんも演説し、地鳴りのような「シェ・ワル・ナ・ゼ!!」という大声援を受けていました。

しかし、解放されモスクワに戻ったゴルビーは、なぜかこのバルコニーに姿を見せませんでした。思うに、エリツィンと一緒に演説して「エリツィンに救ってもらった」という形に見られるのがイヤだったのかもしれません。

でも、彼はここに来て挨拶すべきでした。エリツィンにではなく、ゴルビーを民主主義の象徴として支持し、彼と民主主義を守るために「ホワイトハウス」に命がけで集まった市民に直接感謝するために、です。

でも彼はそれをしなかった。

そして、その日、夕方だったでしょうか、テレビで記者会見のような形で、公式に感謝を述べました。

でも、そのようすは未だに「共産党書記長!」という感じで、市民に率直に、心からの感謝の気持ちを伝えるというふうには見えなかった。

どこか偉そうに見えてしまいました。

この時点で、「ああ、この人は、市民とつながる重要な瞬間を逃してしまったな」と僕は感じました。

その後ゴルビーが辞任演説をする同年のクリスマスにも、僕はモスクワを取材のため再訪していましたが、あのクーデター終了時にゴルビーが市民の前に出ていたら、もしかしてこんなことにはならなかったのではないか、と強く思いました。

その日、クレムリンの屋根からソ連赤旗が降ろされ、ロシアの三色旗が掲げられるのを望遠レンズで撮影した後、僕はモスクワを後にしました。

それから、早いもので、いまや14年。

民主主義が浸透し、開かれた国になると思っていたロシアはすっかり予想と変わってしまいました。

エリツィンはルツコイ元副大統領らが立てこもった同じ「ホワイトハウス」を戦車で砲撃し、チェチェン戦争を始め、多くの無辜の血を流し、アル中になり、彼の一族は汚職にも手を染め、任期途中でKGB出身のプーチンに大統領の座を明け渡しました。

シェワちゃんはグルジアの大統領になったものの、辞任に追い込まれました。

ゴルビーはその後ロシア大統領選に出たものの、得票率は1%以下で、完全に過去の人となっていたことを露呈しました。

(現地で知ったゴルビーの不人気の秘密は他にもいろいろありますが、またいずれ書こうと思います。)

そして、一時的に非常にオープンで愛想がよく、開放的になっていたロシアの人たちの多くは、いまや非常に保守的で、金のことばかり考えるようになったり、この上なく排他的になってしまいました。この点はアンナ・ポリトコフスカヤ記者も指摘していますし、僕が最近話をした何人かのロシア人や、知人にモスクワ大学で行なったもらったアンケートにも現われています。

ロシアはどこにいくのでしょうか…。

(これはミクシィの日記にも掲載しました)