妥当性と可能性の接触。

 以前、Folk Chomskyology - 誰がログのコメント欄に私は次のようなことを書いた。

本論と関係ないのですが、チョムスキーが(誤解はあるにせよ)有名というのは、ものすごく羨ましいです。チョムスキーがというより、「生成文法」が羨ましいのですが。
私の専門の音声認識(工学)は誤解すらしてもらえず、最近になってようやく初音ミク音声合成で頑張ってくれて嬉しいという感じです。

 それに対するブログ主からの返信がこれである。

ところで、僕なんかからすると音声認識自然言語処理などの分野は実学というか具体的な「モノ」につながりやすい(少なくとも理論的な文法研究より)分、専門ではない方に面白さや研究の意義を伝える時にインパクトがありそうだなあ、とよく羨ましく思うのですがやっぱり無いものねだりですかね。

 要するに、「誤解されてでも知られている」方が嬉しいか「知られたときに面白さが伝わりやすい」方が嬉しいかということである。このときはどっちもどっちだと感じていたのだが、昨日、工学の立場の方が楽だと痛感した。自分はかなり楽な立場にいるのだということが分かった。

 昨日、id:nosemさんと会って(http://d.hatena.ne.jp/nosem/20080322/p1)いろいろと喋った。当然のように言語学についての話も出たのだが、私は彼の話を理解することができず、彼もうまく言葉を紡ぐことができなかった。二人の能力的な問題というよりも、学問の性質がそうなのだと思った。言語学は、少しでも深い話に入っていこうとすると、途端に素人には理解できない概念に出くわすことになる。工学にも一応、素人に理解できない概念があったりはするのだが、なんとか説明できてしまう。工学と言語学は何が違うのか。

 工学というのは全てが「○○できる」で話が終わるのである。「できる」で終わらない場合も「できない」で話を終わらせることができる(「できるかどうか分からない」もある)。とにかく、工学の柱というのは「できる」であり、「可能性」である。話の終わりが「○○が可能である」で終わると話の途中が分からなくても素人は納得してくれる。そうかできるのか、となる。

 一方で、言語学というのは妥当性の学問なのだと思う。話が、「こう解釈するのが妥当だ」で終わる(という説明が妥当でなかったらごめんなさい)。これはものすごく分かりづらい。なぜかといえば、終わりだけ聞いて納得するわけにはいかないからである。話の途中(=解釈の根拠)の「素人が分からなくなりそうな難しい部分」に面白さが隠されているのである。決して、結論を聞いて「面白いね」とは言われないし、結論だけ言っても説明した気にはなれないだろう。

 そして不幸なことに、世の中の大半は可能か不可能かで動いている。「できるの? できないの?」という質問は暴力的なまでに強い質問である。その質問に「適切で妥当な判断ではない」と返答しても結局は「可能/不可能」に押し切られてしまう。妥当性は結論にあるのではなく、論理展開に存在するからである。結論だけを見た場合、説得力がないのは当然であり、また世の中は結論を急ぐ傾向にある。妥当性を追究する学問は、立場が弱くなるのである。

 そういうことを思って、工学でよかったと感じた。「できる/できない」の世界はとても説明が楽な世界だからだ。説明の困難さというのは肩身の狭さに通じてしまう。

 ただし、人間は「できる/できない」だけでは生きていけない。例えば、行動を起こすことが妥当だけれどもそれが不可能な状況というのは必ずあるし、逆に、行動を起こすことが妥当でないけれども可能な状況も必ずある。何かを判断するときに片方のみを頼りにするのは危険である。可能性の判断と妥当性の判断の両方がそろってはじめて理性と呼べるのだろうと思う。