タケイブログ

ほぼ年1更新ブログ。

コールソンが集めた八人目のヒーロー――『アベンジャーズ』評

 たとえばキャプテン・アメリカの場合。彼の登場は生身での鍛錬シーンに始まり、出動時には市民を盾で守りながら参上する。そこには使命感に満ちた戦士の姿がある。
あるいはハルクの場合。この怒れる怪物は、その巨躯で空母を内部からぶち壊していく。だが彼の変身はぎりぎりまで温存され、まずは優しく穏やかな科学者の顔を見せるのだ。
 放埓な天才実業家のアイアンマンと荒ぶる神たるソーの対立を引き合いに出してもいいだろう。アクションの差別化や物語上の配置、性格の対比を駆使して、とにかくキャラクターの個性が適切に演出されている。単独での主演作のない者ですら印象付けるその手腕たるやただただ唸らされるばかりである。
 反面、それらの個性からは独自の物語が展開していない。各人の抱える問題は一連のシリーズでほぼ解決済であり、新たなドラマを描きこむにも尺不足だ。結果、個性はただ各々の異質さを指し示すだけの属性となり、集まることそれ自体を巡って物語が進展してしまう。
 この欠陥への解答として用意されたのが、映画オリジナルの脇役となるコールソンの存在である。
 彼は一連のシリーズに登場する防衛組織のエージェントだ。己が身を捧げることで彼は人と人を繋ぐ紐帯を強める役割を果たす。七人とはまた別の英雄像が重ねられたコールソンは、「八人目」の英雄だと言っても過言でない。
 しかし彼の遺品からキャプテン・アメリカのグッズが取り出される時、観客は心の奥底で気付くだろう。ヒーローに憧れて商品をかき集め、彼らの集結を待望する。コールソンとはすなわちアメコミファンや観客の姿にほかならない。
 スーパーヒーローを見守って来た私達が、アベンジャーズの絆を結んだのだ、と。
映画の内外から要請されるヒーロー集結の物語が、映画を観るという観客の参加により完成される。ここに最大のドラマがある。
 ヒーローはひとりではない。NYの街中で戦うアベンジャーズの下へと駆けつけるべく、私達は映画館に集うのだ。

キネマ旬報2012年10月上旬号「読者の映画評」掲載