エヌ氏の成長・円錐

小胞輸送研究をはじめて18年めの分子神経科学者の日々雑感

描きなおされたヒルベルト数学

今週は木・金と、NS大のシンポジウムに呼ばれて話をしてきた。イメージングという共通言語があったので、懇親会やティータイムでの話がはずんで、新しい知り合いが何人かできたのはうれしいことだった。懇親会に出ても、つい知った顔どうしで話してしまう方なので、こういうことは珍しい。

同年代も多かったので、少し話が深くなるとラボの運営とか、次のポストの就職活動の話がでてくる。何人かは任期制のポストだと言っていた。有限の任期でいて、いろいろアグレッシブに仕事をするためには相当の気力が必要だと思う。思わず尊敬の目で見てしまう。

自分は今のところ任期なしだが、異動の目安は示されている(紳士協定ではあるが)。年齢的にも異動適齢期に入っているので、就職活動を開始している。ただ、現在一緒にやっている学生の事もあるし、一方で、子どもの進学時期とかも考えなければならないので、考え始めるときりがない。

異動適齢期ということを改めて考えた会だった。

ゲーデル(解説は林晋と八杉満利子)の「不完全性定理」の第二部「解説」を読む。

ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

一昨年に出たこの本は岩波文庫としてはかなりの売れ行きだったらしい(2007年のベスト10に入ったとか)。
「解説」が200ページ超あり、ここが一般人にも読めてかつ面白い。

不完全性定理の意義と奥行きを理解するためには、この解説のように、不完全性定理に先立つ数学基礎論論争をその動機付けから始めて解き来るのは、私のような歴史好きにはしっくり来た。

ヒーローはとにかくヒルベルトである。一般的理解では、ヒルベルト時代精神をいっぱいに浴びて数学の完全性をめざしてつきすすみ、数学基礎論論争に数学的・政治的に勝利をおさめ、全ての数学定理を機械的に証明することを可能にする「ヒルベルト計画」をほぼ完成するところまでいきながら、若き(数学基礎論の世界に参入して2年目の)ゲーデルに一切をぶち壊された「失冠した皇帝」のようなイメージで語られることが多い。

林晋と八杉満利子の解説は、その流布した定説を一次資料の研究などから大きく修正して、ヒルベルトを全く別の姿で描くことに成功している。数学に精通し、数学することを楽しみ、数学の発展を信じきったポジティブな、それでいて等身大の姿である。

ヒルベルトは公理が無矛盾であるだけでなく互いに独立であることを求めた。そうしておくと、定理が証明されたとき、その定理が依存する公理が簡単に判る。それにより定理の「本質」が明らかになり、理論の透明度が飛躍的に高まり、結果として数学者の生産性が高まる。この新公理論の本質は「数学をシステムとして捉えること」だったのである」
ヒルベルト集合論が概念と思考の数学、無限数学のための最良の記述言語であることを、理解していただろう」
「公理的に理論が建設された後では、それは一切の人間的要素を取り払っても実行可能なものでなくてはならない」
「数学には「内容的数学」と「形式系」の2種類がある。形式系は「内容」が一切取り払われた「機械」のような無機質な数学である」
「「形式系の無矛盾性証明による数学の基礎付け」というっヒルベルト形式主義は、「数学の基礎付け」という哲学的問題を客観化することにより、すべての不安定な非形式的問題を超数学にしわ寄せしてしまう方法だ、と考えることもできる」

その上でのゲーデルと現代化された数学基礎論の位置づけをできるだけ慎重に行っている。

「論理と数学は、人間の知的活動の内で、最も形式化を行いやすい分野であり、それゆえに、他の分野に先駆けて、形式系や、ヒルベルト計画のようなものが創られたのであるが、その数学においてさえ、形式化の恣意性や不確定性を逃れる事はできない。これは、ゲーデルの定理が教える、もう一つの重要な不完全性であると言えるだろう」
「1936年のチューリングの研究により、数学知の外化としての形式系が本当に「人間精神」とは独立した機械によって操作可能であり、そして、この機械的ということこそが、有限操作としての計算の本質であることがわかったのである」
「非可述的定義や排中律などの「問題のある」原理は、少なくとも20世紀初頭までの数学に限れば、滅多に使われることはなく、無限算術化部分などの、比較的限定された場所、ワイルの言葉を借りれば「数学の辺境」に集中しているという事実であった」

この本で、数学基礎論不完全性定理における数学と哲学の関係については、かなり頭を整理することができた。評価は星4つ。