「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月4日(木) ボルティモア到着。スパロー・ポイントでメリーランド製鋼会社、牡蠣缶詰工場を見学。商業会議所の午餐会出席後、ジョンズ・ホプキンス大学等を見学。伊藤博文の国葬日につき、弔意を表して夜は静粛を旨とする 【滞米第65日】

竜門雑誌』 第271号 (1910.12) p.29-32

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月四日 木曜日 (晴)
午前二時華府ユニオン停車場を発し、同三時ボルチモア停車場に着、朝食後青渊先生には一行と共に歓迎委員に迎られ、特別仕立の列車に搭し二十哩を隔てたるスパロー・ポイントに到り、メーリーランド製鋼会社の鉄道製作の状態、及浮船渠に於て船舶修繕の有様を見聞し、夫れよりボートに移乗して、牡蠣缶詰製造処を一見して、正午ホテルベルベエデアに於て、商業会議所の開催に係る午餐会に出席せらる、席上ボナパルト氏(ルーズベルト氏大統領の時司法大臣の職に在り、日本学童問題に関するの起訴状を草案したる人なり)の演説あり(其要旨に曰く、諸君は東洋の米国を以て目すべき日本国実業家の代表者なり、宜敷十分米国商工業の状態を知悉して、自国を利せられん事を望む、将来パナマ運河開鑿落成の上は、当市は日本と直接通商の途を開き、以て両国の通商を盛ならしむる事を期す、パナマ運河開鑿の暁同地を通過して先づ寄港すべき地はボルチモーア市にして、而して其船舶の国籍は蓋し日本ならん、伊藤公爵の薨去は啻に日本の為めに悲しむのみならず、世界の為めに痛惜に堪へざる処なり云々)次に青渊先生は起ちて大要下の如き演説を試む(当市に於て肥料会社の完全なる者あるは、蓋日本の農業と均しく、此地が肥料を必要とする故ならん、予は元来農夫の出身にして、今春迄日本の肥料会社に関係し居たるを以て、興味特に深きを覚ゆるなり、伊藤公爵の薨去に属するボナパート氏の弔辞は予の特に感動する処にして、予は同公爵と四十年来の親友なるが、同公爵は全く一身を日本の国家に捧げ、過般異域に在りて薨去せられたるも、其心事を察すれば或は本望なりしやとも思はるゝなり云々)次ぎに市長ジエー・ビー・マホール氏は、鉄道は諸君に愉快と幸福とを与ふる事は、諸君の短日月に米国各都市を巡廻する事に於て明かなり、而して当市は米国に於て始て鉄道の敷設せられたる地なり、又電話も始て当市と華盛頓間に架設せられたるなり、パナマ運河開鑿の上は、同地を通過したる船舶の第一に寄港せらるべき地は当市なり、同河の開鑿は三年の後に在り、其後に於ける日米両国の関係は、必ず密接ならざる可らず云々と演説し、会終て先生以下一同自動車にてジヨンス・ホプキン大学を訪ひ、市内各地を見物して、午後六時汽車に帰る、此日は伊藤公爵国葬の執行せらるゝを以て、一同車中に在りて謹慎し、遥に弔意を表したり
午後十一時三十分ピッツバーグ市に向て出発す
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.279-280掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.334-339

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十六節 ボルティモア
十一月四日 (木) 晴
午前二時華府「ユニオン」停車場を発し、同三時ボルティモア・ユニオン停車場に着、同八時半歓迎委員来る。別仕立の列車に乗組み市外二十哩を隔てたるスパロー・ポイントに至り「メリーランド」製鉄所及び牡蠣缶詰所を参観し、帰路汽船にて港内の諸設備、及び造船所等を見物す。午後一時半ホテル・ベルベェデアにて午餐会あり。席上前司法大臣ボナパルト氏、特に伊藤公の為めに追悼の辞を述べ、又将来パナマ運河落成の上は当市と日本との間に、直接通商の開かるべきことを演説し、市長以下の演説者は、何れも他日の希望を述べて款待特に懇切を極む。午後ジヨンス・ホプキン大学を訪ひ、市内各地を見物して、夕刻列車に帰る。本日は伊藤公国葬当日に当るを以て、一同静粛を旨とし、遥に弔意を表す。十一時三十分発車ピッツバーグに向ふ。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.304掲載)


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