「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

1909(明治42)年12月1日(水) 日本での報道「失策も如斯なれば却て愛嬌あり」(実業之日本)

実業之日本』 第12巻第25号 (1909.12.01) p.27

    失策も如斯なれば却て愛嬌あり
             特別通信員 社友 加藤辰弥
  『勘太郎が食ひたい』
米国にカンタロープとて、瓜の一種で球形の非常に味のよい果実がある。渋沢男も夫人も是が大の好物で、先づ第一に此果実を命ぜられるといふ程である。多木氏も是が非常に好き、能く名を聞て忘れて居たが、或人から『君、勘太郎を覚えて居給へ』と言はれ、成程さうだと漸く覚えて、或日独りで食堂に現はれ、給仕を呼で忽ち『勘太郎勘太郎』と絶叫した。給仕はどうも能く分らぬので、先生耐え切れず、ペンを出して紙上に絵を描て見せると、給仕は漸く合点、軈がて持参りし物を見ると、一の大なるドンブリ鉢、是れではないと頭を掉つて居る中、英語の出来る団員がはいつて来て問題は漸く終結した。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.200掲載)