「いただきます」とは何か?

思うところがあり生活改善をスタートしてから早2ヶ月が経つのだが、そこから感じたことを少し書きたい。


まずは何をやったのかを紹介します。


半日断食、これが効く。朝飯を抜いて、一日18時間なにも食べない時間を作るのだ。以前の僕の朝食はかなりの量、朝からトンカツ定食(大)みたいな感じだった。なので朝飯を抜くにはかなり抵抗があったのだが、やってみるとそれほど苦しくもない。昼はおにぎり or パン、夜は普通に食べる。


そして走る。長年運動から遠ざかっていたのだが、もともと体を動かすことは大好きだ。最初は2,3kmだったが、見る間に距離も伸びてスピードも上がり、10kmくらいがちょうどよい。何よりランナーズハイってものを経験できたのはデカイ。


すると、みるみる体重が落ちた。62kgが1.5月で53kgに、9kg減。おもしろくなってきて、どこまで減るのかやってみたかったが、やや拒食症気味になってきたので、とりあえず55kgで安定させることにした。体調もすこぶるよく、目覚めもすっきり、少々飲んだ程度では二日酔いにならない。僕の場合、体調を整えることは、いい音楽を演奏することや、楽しく釣りをすることに結びつく。もちろん、いい仕事も。


この経験を通じてずいぶん考え方が変わった。僕は元来、大の食いしん坊だった。大盛りじゃないと気がすまず、質素な食事なぞ冗談ではなく、とにかく肉を持って来い、と。おいしいものを食べることこそ人生の最重要事項であった。もちろん食事は楽しい時間に変わりないが、毎日好きなものを好きなだけ食べていると体を壊してしまうことに気がついた。(やっと?)


次に、食べるもの、食べることに対して、もっと丁寧に接したくなった。作った人がわかるものを食べたい。添加物入れまくりの保存食系もインスタント食品も避ける。当然、マクドナルド、吉野家、ガストなんかの全国チェーンジャンクフードもパスだ。


おもしろい話も聞けた。人間が持って生まれた“運”の量はあらかじめ決められていて、要はそれを何に使うか?だというのだ。日々暮らすこと、お金を稼ぐこと、人間関係を気づくため、場面場面でいろいろな運を使う。食べるという行為は日々のことなので無くせないが、過度に贅沢なものを食べること(美食)や、食べすぎ(過食)はその運を無駄に使ってしまい、いい暮らしに必要な運が足りなくなる、と言うのだ。興味深い。


そして次に最重要発見事項、「いただきます。」 とは何か?だ。


無邪気に、「いただきまーす」とご飯を食べ始めるが、これは、食べるものの “命” を “いただきます”ということに他ならない。食べるための殺生は大切な行為だが、他者の命をいただくことに対しては、もっと真剣に考えてもいい。


僕は魚をさばけても、牛や豚はさばけない。正直、怖い。スーパーでパックになって売られている肉については、恐怖のスプラッタープロセスを誰かがやってくれているから大丈夫なだけである。それってちょっとまずくないだろうか?


さばく=殺して、食べられる状態にする、って行為を誰かにやってもらうってのは、食べる=命をもらうって行為に関して、リスペクトが欠如している気がする。あまりにも間接的で、インスタントになりすぎてはいないか?


いずれ動物をさばく、という行為にチャレンジせねばなるまい。自分で釣った魚をさばいて食べる行為はとてもいいものだ。次は自分で捕まえた陸上動物をさばいて食べられるように・・・なれるのか!?


初歩としては鶏か?ある映画で首をつかんでグルグルまわして、首を引きちぎって〆ていた。あれが初歩だとはちょっと思えないのだが… 牛とか豚とかっていうと、もう一つハードル高いよね。あれを殺して解体して食べるってとこまでたどり着ける気がしない・・・


一般的には猪、鹿あたりが撃ちごろ動物だね。誰かに頼めば連れて行ってもらえるかもしれないが、迷惑かけちゃうだろうなぁ。怖いよなぁ、野生動物。殺るか?殺られるか?だもんなぁ。銃を撃つ練習もしなきゃならない、これは楽しみだけど。


いずれにせよ、今の自分にはできそうもないことだらけで、若干凹むがいずれこのあたりに挑戦したい。


とは言いつつも、おいしいものを食べにいくお誘いも、酒のお誘いも、絶賛受付中だ。お気軽にご連絡下さい。うまいもの&おいしいお酒で楽しくやりましょう。


Mother and Child Divided (1993), Damien Hirst (1965-), Astrup Fearnley Museum of Modern Art