「エッジの効いた」って

最近またスガシカオとか聴きはじめている。それもデビューから5年くらいまでの懐かしい系のやつを。もともとつじあやの「カバー・ガール」を聴いていて彼女がやっていた「黄金の月」にはまったからなんだが。
つじあやのはなんていうのだろう、ゆるーい、脱力系なんだろうな。彼女のカバーした達郎の「パレード」とかは聴いていたのだけど。
ある時彼女がやった「NEVER CAN SAY GOODBYE」をどこかで聴いてそれが耳から離れなくなってしまいレンタルで「カバー・ガール」借りてきた。それに入っていた「黄金の月」がえらくよかったんだな。
しかしつじあやの、スレンダーかつ首が細くて長い、ショートヘアー、メガネ、まあエキセントリックな雰囲気のシンガーだけど、完全に私のストライク・ゾーンだ。とにかくメガネ女に弱いのだ。「NEVER CAN SAY GOODBYE」はジャクソン5の名曲なんだけど、このモータウン系の曲が見事にボサノヴァしていてなかなかにつじあやのヴァージョン心地よいのだ。
話はそれた。スガシカオである。つじあやのヴァージョンを聴いて、本家の「黄金の月」が聴きたくなった。で、とりあえず手持ちのライブ盤とか聴いてみる。やっぱりいいねこの人なんて思う。それでネットで彼のことを検索してみる。ウィキベディアのスガシカオの項目とかを意味もなく読んでみる。そして件の表現にぶちあたったわけだ。

スガシカオ 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 
スガシカオ - Wikipedia

「近年では、彼ならではの『エッジの効いた』作詞で男性ファンも増加」。で、『エッジの効いた』ってなんだよ、って思ったわけだ。確かによくつかわれる表現なんだが、具体的にどういうことを言いたいわけっていうところ。エッジだから、まあ「とんがった」とか「角が立った」みたいな意味あいなんだろうか。
それで「エッジが効いた」の意味をネットで調べたんだけど、まあ用法としてはだね、「エッジの効いた歌」、「エッジが効いた演奏」、「エッジが効いた表現」とかまあふんだんに使われているわけだね。おまけにだ「エッジが効いた企業」だの「エッジが効いた人生」だの、もうなにがなんだかわからんけど、なんとなくかっこいい風にも使用されている。悪い表現ではない、何かしら評価の高いものを意味する表現なんだろうな、これって。
でも意味内容はなんとなく伝わるものはあるけど、具体的にどういうことっていうとさっぱりわからん。ネットで調べた限りでの「エッジの効いた」の定義は見当たらずなのである。いつか改定される広辞苑にこの言葉が載るかどうかはわからんけど、どういう意味なのか誰か教えてくれないだろうか。
おそらくこのへんが語源なのかしらんと思うのがギター用語とかで使われるもの。

「エッジ」には「鋭い」や「刃先」といった意味があります。ギター用語における「エッジ」とは、主に音に対して使う言葉です。バッキングやカッティングなどを弾くときに「エッジの効いた音」といいますが、それには「立ち上がりの速い歯切れの良い音」や「はっきりした鋭い音」という意味があります。
ギター初心者練習に役立つギター講座WEB
http://www.syoboo.com/guitar/ejji.html

まあ、歯切れのよい表現とかエッジ=刃先からとんがった表現とかに慣用されたんだろうということだ。しかし、こういう意味もよくわからず使っている言葉のなんて多いことかとも思うわな。ジャズとか聴いていても、よくアーシーだのブルージーだのスポンテニアスだのわけもわからず使っている。まあそういうことなんだろうな。しかし「エッジの効いた歌詞」とかはわかるけど、「エッジの効いた人生」ってどんなものだろう。
波乱万丈な人生送ったりした芸術家とかを評していうとすれば、例えばゴッホなんかはかなりエッジの効き具合が高かったような気もするな。個人的には10代で早熟な詩作の天才、二十歳を過ぎたら芸術を捨てて冒険家になったランボーなんかは「エッジ度」がマックスに近いような気もします。
いろんなことの「エッジ度」を比較してみるのも面白いかもしれませんな、これは。

妻の失職

後一月半ほどだけど、やっぱり妻の復職は難しそうだ。単純に都内までの通勤が難しいということもある。近距離を杖歩行できるといっても、やっぱり方麻痺、左上肢、左下肢機能全廃なのである。とにかく単独での移動は相当にしんどい。やっぱり駅までの歩行にしろバスにしろ、それから電車に乗って都内の会社までというのはどうにもクリアできそうにない。
さらに良くなったとはいえ、脳をやられているのだ。注意障害全般も改善されているとはいえ、まったくなくなったかといえば全然そういうことはないのだ。
妻が入院してた頃にさかんに読んだ高次脳機能障害の本とかをおさらいすると、「注意」には四つの機能があるということだった。

1)注意の持続
 注意力や集中力を持続させながら一定の行動を行うこと。一つの物事を「長く続けられる力」のこと。
2)選択性注意
 身の回りのいろいろな刺激の中で、一つの刺激を選択してそこに注意を向けて行動をおこなうこと。本棚の中から自分が欲しい本を見つけられるような力。
3)同時処理
 一つ以上の刺激に対して、同時に注意を向けて行動を行うこと。ようは一度に二つ以上の事に注意を向けることができること。同時に二つ以上の処理を行う力のこと。
4)注意の転換
 一つの行動=刺激から別の行動=刺激に注意を転換できること。

それぞれ発病当時はそうとう重い症状がでていた。国リハに入院して最初に担当看護師が幾つかの知能テスト、心理テストを行った時に、横でみていてこんなことも判らないのかと改めて思い知らさせたことがあった。六ヶ月近くのリハビリ、特にOTや心理テストなんかでずいぶんと改善されたとはいえ、退院当初はまだまだという感じで、元気だった時の3割程度かな〜とも思ったものだ。
自宅でもあんまりリハビリとか手伝っていないし、一人でできることなんかはひどく限られてしまうけど、たとえば200ピースくらいのジグソーパズルややったり、クロスワードパズルの雑誌とかにこった時期もあって、「注意の持続」についてはずいぶんと改善されたんじゃないかと思う。
でも、選択性注意は例えば本屋とかにいってもやっぱり背表紙だけのタイトルではなかなかお目当ての本を探せないし、同時処理や注意の転換についてはまだまだだと正直思う。もっとも最初の頃は注意の転換についていえば、私と電話で話していてピンポ〜ンとインタホーンがなり何かの営業だか集金だかが来て、それに答えた途端私と電話で話していたことを忘れたしまうなどという失敗もあったけど、さすがにそういうのはなくなったと思う。
とはいえいざ仕事となると、特に彼女がやっていた経理事務みたいなこととなるとまず難しいだろうと思う。まかされていた固定資産管理なんかをそのまま復帰してやることができるだろうか。
例えば自分の仕事についてみても、一応部下というか下についている人たちの仕事の状況とかにそれなりの目配せしながら、自分自身それなりに持っている仕事もかたずける。日によって違うけど、親会社の様々な人、各営業担当や管理部署から様々な依頼とか問い合わせとかを受けてそれを様々に交通整理している。さらに得意先からもいろいろ依頼や時にはクレームとかの電話はあるし、それをまあそれなりにこなしていく。さらには上司筋からのいろいろとイレギュラー系業務も入ってくる。まあ上司は思いつきでものをいうのが常だからね。
なんかそうやって書き出すとおそろしく入り組み込み合っているけど、まあ仕事なんてそういうもんだろう。さすがに歳だから、最近は冗談半分チキンヘッドを自称して、「俺、今なにやっていたっけ」なんて笑かしやってみたりするけど、けっこう同時に三つ四つのこと進行させるなんてまあ普通にやっている。よほどの単純作業系でない限り仕事なんていうのはまあそういうものなんだ。
家事仕事とかでも世のお母さんたちは、料理を何品か同時進行させ作りながら小さな子どものの行動とかにも目配せしたりと様々に注意を払っている。
妻にはどうしてもそういうところが、注意がうまく繋がっていかないところがあるのだ。それを理解してくれるような職場であれば、なんとかなっていくかもしれない。でもことビジネス現場ではどうだろう。私のいる会社なんかは、けっこう管理がゆるくて甘々なところがあるから、ひょっとしたら受け入れられるかもしれない。でも器というか根性が小さい奴が多いから別の部分で駄目かもしれない。それじゃ、妻の会社はというと、けっこうシビアな人事管理やっているところらしいから、なかなか難しいのではとも思うわけだ。
妻も時期が近づくに連れて以前ほど、職場復帰に対するモチベーションはなさそうで、私が復帰は難しいんじゃないかと言うと、「多分駄目かも」みたいな返事をするようになってきた。もともと仕事が大好きという人間じゃないし、家でごろごろするのは仕事している時には、一つの夢みたいな部分もあったような節もあるのだから。
先日、脳外科でMRIを撮ってもらい、その画像を診ながら医師から説明を受けた時にも、改めてその梗塞の後の大きさを思ったものだった。前頭葉から頭頂葉および右側頭葉にかけての大きな梗塞の後。この部分の脳細胞が死んでしまっているのだ。だからこそ左側上肢、下肢の完全麻痺なのである。前頭葉から頭頂葉をやられているからこその注意障害でもあるのだ。国リハの主治医がいっていた、あんまり無理せず、急がずに家事を中心とした形での主婦として社会復帰することを目指すのが一番いいという言葉。それが現実的なことなんだろうと思う。
もちろん妻が興味を持って、さらに妻を迎え入れてくれるような環境があれば、できるだけ外の社会に出て行くべきだとは思うのだが。

神奈川県立生命の星・地球博物館

今回は神奈川県立生命の星・地球博物館というところにいってきた。箱根登山鉄道入生田駅近くにある比較的新しい博物館だ。なんでも馬車道にある神奈川県立博物館の自然史部門を独立させたものだという。それでも1995年に誕生したというからすでに12年も経ている。今回宿に貼ってあったポスターを見るまでまったくその存在すら知らなかった。
http://nh.kanagawa-museum.jp/
もともと博物館は大好きだ。この博物館のもとになった神奈川県立博物館にも子どもの頃なんども足を運んだ。高校生くらいになってもけっこう一人で通ったものだ。半日くらいだったら楽に時間をつぶせた。そう、けっこう暗い青春時代を過ごしたガキだったんだな。
おまけに妻も実は博物館好き。新婚旅行でニューヨーク行ったときに、半日をアメリカ自然史博物館、半日をニューヨーク観光くらいに予定組んでいたのに、博物館に半端じゃないはまりかたして、結局ここで1日を過ごすことになってしまった。そのお陰で翌日一日をメトロポリタン美術館予定していたのに、半日しか時間とれなくなって駆け足見学になってしまった。まあ、アメリカ自然史博物館はとてつもなく面白いところだから、ここで一日はある意味じゃ普通かもしれないのだけど。
だもんで、博物館に行くというと目を輝かして興味しんしんの様子だった。そして娘はというと、そこそこに理科が好きなこと、最近DVDで「ナイト・ミュージアム」を見たばかりで、えらく気に入っていたので博物館に行くというとこれも大喜びだった。
この自然史博物館の常設展示は1階が地球展示室という地球科学、惑星科学ものと生命展示室という地球上の生命の進化と剥製や骨格模型の展示している。2階は企画展示コーナーと図書室、3階には常設展示室として自然との共生を考える共生展示室、神奈川の自然を考える神奈川展示室がある。この神奈川展示室がかっての神奈川県立博物館に一番近い展示物だったかな。とはいえ最近の博物館だから、展示についても新しい。普通博物館の展示というのは壁面にガラスで仕切られた箱型の展示が延々と続くというのが多いのだが、ここはまず天井に非常に高く立体的な展示が中心だ。なんか見せ方もずいぶんと変わったものだなと思ったものだ。

博物館といえば、なんといっても剥製と標本だ。ある意味では死骸を集積展示しているのが博物館だともいえる。その展示された骨や剥製から彼らの生と彼らの生きた環境に思い巡らせる。骨や死骸から想像力を喚起する場ということなんだろう。
村上春樹の代表作の一つである『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中で登場人物の私の空想世界「世界の終わり」の中で「僕」なる人物は図書館で一角獣の頭骨から古い夢を読み取る夢読みという仕事につくことになる。博物館で骨格標本を見るということはある意味では、獣たちの古い夢を読み取ることなのかもしれない。もちろん象徴的な意味でだけど。
子どもの頃の将来の夢は幾つかあったけど、高校くらいによく思ったことは図書館司書か大学の研究員になりたいということだった。いずれも本や資料に囲まれ、ある意味本や資料を読み、分類するのが仕事だろうと思ったからだ。どっちも果たすことなくきてしまったけれど、今思うに博物館の学芸員という仕事もなにかしら素敵に趣がありそうだなとも思う。生まれ変わったらなりたい仕事のリストの一つにあげておこうと。

博物館といえば定番のティラノ君。基本ですな。いちおう娘にはお約束で、「こいつ夜になると動くんだよ。帰ったふりして隠れてようか」と。娘も「骨投げるとじゃれてくるんだよね、きっと」と応酬。
さらに博物館にはいかにも作り物っぽいけど、たぶんちゃんとした剥製標本である様々な魚や海老やら蟹やらが壁面に展示されている。この蟹がなにかしら心を動かすものがあるのよね。

なんでも蟹博士として有名な故酒井恒博士の蟹コレクションの寄贈を受けその一部を展示しているのだとか。酒井先生知る人ぞ知る存在だったのだろう。膨大なコレクションということだが、この人の家ってところせましとかに、かに、かにっていう感じだったのだろうか。作りかけの蟹標本とかってさぞや臭そうな気がするな〜。家族はけっこうブーイングしてたんじゃなかろうかな、などと想像する。でもこの蟹標本けっこう気に入ってしまいました。
なんにせよ小学生くらいのお子さんがいるところで箱根方面行くときは、ここは押さえておくべきおすすめスポットだとは思いますね。半日はきっちり遊べます。ほんでもっと子どもが生き物でもいいし、地球のこと、宇宙のこと、まあなんでもいいです。なにかしらに興味を持ってくれれば大正解なのではないかと。
思うに自分が子ども時代にしろ、自分の娘にしろ学校で博物館に見学みたいなことってあんまり聞いたことがないような気がする。そういうことに積極的な先生とかがいる学校だと校外学習みたいなことであるのかもしれないけど、どうなのだろう。もっとそういうことに積極的になってもよいのではないかと思うな。

箱根に行ってきた

またまた健保の宿とったので15〜16日と箱根に行ってきた。なんか毎月1回、健保の宿巡りしているみたいだな。財力続かなくなるんとちゃうだろうか。とはいえ、一泊6000円でたいていの旅館とかよりきれいな部屋に泊まれ、豪華な夕飯とれるのは魅力。しかも今の私にとっては上げ膳、据え膳がこのうえなく嬉しい。家で飯食っていると、やれ後片付けだのなんだのがあって、食後にのんびりなんて夢の夢だもの。
それ以上に家族でのお泊りが病気になって以来すっかりおでかけ好きになってしまった妻のある意味唯一の楽しみでもあるから、まあできるだけつきあってあげたいとも思う。こうやって毎月毎月予約いれているのも彼女の所業でもあるわけで。
とはいえ、いよいよ11月に休業して丸々2年、おそらくそのまま失職することになるだろうから、我が家の財政も相当に厳しくなってくるだろうから、そうそうおでかけなんてできなくなるのだろうな。
妻が退院してから箱根は三回目だ。今回も彫刻の森美術館、ガラスの森美術館なんかを回った。彫刻の森はアップダウンが多いので車椅子を押して回るのはけっこうしんどいところだけど、やっぱり面白い。英語表記ではTHE HOKONE OPEN-AIR MUSEUMっていうのだが、これが一番名は体をあらわしているような気がするな。オープンエア・ミュージアム=屋外美術館ていうことなんだろうが、自然に包まれてあちこちに点在するオブジェ観ていると、そこそこに豊かな気分になってくるような気がする。
「ミス・ブラック・パワー」
もはやこの美術館の代名詞ともいうべきユーモラスかつ迫力のあるオブジェだね。異形の一言ですな。作者のニキ・ド・サン・ファールという人まったく知識ないのだけど、ネットのいいところは、とりあえずくぐるとこういうサイトがあって、なるほどこういう人なのかっていうことがわかるところなのかな。
http://www.niki-museum.jp/frame7.htm
個人的にすきなのはこのへんかな。作者忘れちゃったけど。