人の・・・聞き方

いまごろ知った。
人が話をしているとき、話を聞いていない人がいる。
悪い意味ではないよ。
話じゃなくて、人を「聞いて」いる人がいる。
そんなふうに、誰かが、じぶんを「聞いて」いる瞬間に出会ったときは、私はなんだか感動に包まれる。
話じゃなくて人を聞くこと、は、自分にない才能だからである。
私はついつい、話を聞いちゃうから。
でも、話じゃなくて、人を聞いている人は、そうしようと思っているわけではなく、それが自然とできる、生まれつきの能力みたいだ。
以前、私が、これこれ、こんなことがあったのーっ!と、ある出来事の内容を必死で話したTくんは、「ふうん、topazfallさんって、退社した人にまで頼られちゃう人なんですか〜」とコメントした。
わたしはその返答に、一瞬、頭も身体も停止。
Tくん、わたしが必死で伝えようとした内容じゃなくて、わたしを聞いている。わたしという人間を。
つい最近、遭遇したのは、習い事の師匠。
「その服かわいいですね〜」と言われて、「sousouのです!」と言って、sousouについていろいろ説明した私に、先生は一言。
「和のものが好きなんですね〜ここ何年かずっとtopazfallさんを見ていると、センスが変わっていくのを感じます」
・・・・・先生。話の内容じゃなくて、わたしを聞いていた。
Tくんも先生も、選び取り、受け取ったのは、私の話の情報じゃなくて、わたしという人間の情報だ。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画「パンチドランク・ラブ」でも、主人公(アダム・サンドラー)が恋した女性(エミリー・ワトソン)に、約束に遅れた理由を必死になって長々と説明するシーンがあって、このとき聞いている女性は、遅れた理由のどうこうはもう眼中になくて、必死に説明する主人公の誠意だけを受け止めていて、女性にはこういう優しさが必要なんだなあ、私にはなかったあ、と思った記憶があるが、それも、話じゃなくて人を聞いていたということだ。
人が、なかなか言葉が出てこないようなときこそ、しどろもどろになっているときこそ、とても大切なことを話そうとしているから、そういう状態になったときこそ、その人の話を熱心に聞きなさい、というのが、また別の師匠からの教え。
生まれつきの才能がある人は、その人の話→その人を熱心に聞くことができてしまうのだろうなあ。
生まれつきの才能がない私は、意識して努力してみることにする。