虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ぼくを探しに」

toshi202014-08-17

原題:Attila Marcel
監督:シルヴァン・ショメ


 朝。今日もぼくは同じ夢で目が覚める。
 決まって見るのは美しい母と、そして荒々しい父の夢。夢の中の母はまるで聖母のような微笑みを浮かべ、父は獣のように吼えながら、赤子であるぼくを威嚇する。
 シャワーを浴びながら、悪夢を振り落としている。耳に聞こえるは2人の叔母の歌声。


 僕は言葉が話せない。原因はわからない。だが、きっと父のせいだ。ぼくは父が嫌いだ。
 父と母はぼくが幼い時に死んでいる。だから、両親の記憶は夢の中のふたりだけだ。以来、二人の叔母によって育てられたぼくは、叔母の願い通りピアニストになった。普段は叔母たちのダンス教室で伴奏をしながら、時折開かれるコンテストに参加する。平穏な、だけど、ただ続いていくだけの日々。


 ぼくは、ぼくがわからない。


 だが、ある日。階段ですれちがった盲目の調律師が、同じマンションにあるナゾの隠し部屋へと入っていくのを目撃したぼくは、導かれるようにしてその部屋へと足を踏み入れる。そこで僕は、部屋中を野菜畑にしている、ナゾの老女と出会う。彼女の名前は「マダム・プルースト」と言った。


 彼女の出すハーブティとマドレーヌには、ぼくがぼくを取り戻すための不思議な力があった。
 ぼくは彼女の部屋で、幾度となく、自分を探す旅に出ることになる。



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 「ベルヴィル・ランデブー」で2003年に長編アニメーションデビューし、いきなりアカデミー賞にノミネートされたフランスアニメーション界の偉才、シルヴァン・ショメ監督の長編実写映画デビュー作である。
 本作の原題「Attila Marcel(アッティラ・マルセル)」は「ベルヴィル・ランデブー」で使われた楽曲のひとつが由来となっており、その詩が、ショメ監督のこの映画の発想の源となっている。


彼は男の中の男 / たくましい男 / 死が見える 目の前に / 彼の黒い瞳の奥に / なんて ひどい仕打ち / 私の体は あざだらけ / 目にもパンチの痕 / 私の人生は真っ青

 いわゆるDVクソ野郎について歌詞をエディット・ピアフ調で歌い上げるという、なかなかの珍曲であるが、映画公開後、本国ではなぜかいわゆるニコニコ動画の「うたってみた」カテゴリ的に、この唄を唄って動画サイトに上げる人が次々と現れる人気曲となった。
 そしてこの曲が唄うような「光景」が、この映画のミステリの鍵を握っている。父と母は何故死んだのか。そして、なぜぼくは言葉を失ったのか。



 イノセントで失語症を患う「ぼく」ことポールを演じるギョーム・グイの演技はすばらしいのだが、物語の鍵を握るマッチョで気が荒い(と思われる)ポールの父親役も彼が演じているのが面白い。見ている最中はまったく気づかなかったのだが、それだけ演じ分けられているということだ。
 つまり、本来彼の中には、父親のような「野性」も眠っていたけれども、ある事件を境に彼はその可能性を奪われてしまった。ということでもあるだろう。ポールが本作で行う「記憶を巡る冒険」は、彼自身の「可能性」を取り戻す旅だ。



 隠し部屋に住むナゾの老女、マダム・プルースト(アンヌ・ル・ニ)の名前はマルセル・プルーストから拝借したもので、「失われた時を求める」主人公の導き手となる。シルヴァン・ショメ監督がアニメーションデビュー作から一貫して「人生の黄昏にいる人々」をモチーフに使う事が多いが、彼女もまたその例にもれない。寛恕の他にも「魅力的な黄昏」を宿したキャラクターが次々と現れる。
 人生の黄昏にある彼女が、ポール青年の原初の記憶を取り戻させ、人生をリスタートさせようとするその動機は、彼女が置かれた家庭環境にあったことが語られる。ミュージカルやら着ぐるみやらプロレスやらが乱舞するにぎやかな記憶の中で、ポールは少しずつ自分の中に眠る可能性を取り戻し、やがて意外な真実へとたどり着く。

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 アニメーション監督らしい独特の画づくりでありながらも、その作家性を十分に生かした作品になっている辺りはさすがシルヴァン・ショメと思いつつ、本作のラストは、どこか寂寥とした前作「イリュージョニスト」のラストとはちがう瑞々しさがあり、実写映画という、新たなる環境への挑戦は、天才の新たな扉を開けたようにも感じたのでした。(★★★☆)