『馬敗れて草原あり』

寺山修司・著。 ISBN:4041315131
寺山修司のエッセイは何本か読んだことがあったけど、競馬について書いたものを読むのは、実はこれが初めて。
浪漫派なんていうと安きに堕してしまうのだけど、

よく、私に「なぜ賭けるのか?」と尋ねる善良な冷笑主義者がいる。
そのとき私は答える。「知りたいのです」
「何を?」
「いろいろなものを」
「自分の運をですか?」
「世界を」
すると相手は、その「競馬哲学」をわるふざけだと思うらしい。

…などという一節によく表れているように、氏はギャンブルに現実の超克、あるいは未知の可能性を追い求めていたのでしょう。競馬ジャーナリズムが振るわない(?)いま読むと、かなり斬新な切り口であり、文章でもあります。ちょっと長くなりますが、別の箇所を引用します。

人は競馬場に出かける前に、必ず幻想のレース展開を組立てる。想像力の荒野で、数頭の馬が「法則」を求めて、抜きつ抜かれつし、一つの結果を生み出す。
そこまでで、レースの半分は終ったことになるのである。あとの半分は、実際の競馬場で、前夜の幻想のレースを「たしかめる」眼のスパイ、現実原則による検算というかたちで行われる。その「たしかめる」行為をさして、レース観戦ということばが用いられているともいえるのである。
だから、ビギナーがダービーにやってきて馬の名前も知らずに「あたし、ダービーを観たわ」といっても、ほんとうはダービーの半分を観たにすぎない、のであり──あとの半分は彼女の過去(ストーリー)の中で、流産してしまっていたということになるのだ。「実際に起こらなかったことも、歴史のうちである」というE・H・カーのことば(『浪漫的亡命者たち』)は、競馬ファンのためにいわれたかと思えるほど、正鵠を得ている。

こういうスタイルで競馬を語れる人、いま見られなくなったなぁ。いや、発表の場がないのかな? …よく分かりません。