なんで突然Windows版Safariなのだろうか


ということで、one more thingとして突如発表されたWin版Safariですが、当然巷の印象では「なんで突然今更・・・」だと思いますし、私も「使わないよ、Firefoxがあるのに」です。だけど、そこはそれジョブズの考えることですからなーんかあるんだろうなあ、ということで暇つぶしの駄文にて推察。
おそらくこれは、.Macのリニューアルの布石ではないか、と。ネットサービスを通じたマックの優位性とアップルの文化の流布とアプローチを開くものではないのか、と。つまりありきたりのWEBブラウザーの選択肢の一つとしてSafariを投入したのではなく、アップルの分化への入り口として、いや、入り口としてというような優しい話ではなくて、専用口、通用口、はたまた会員制のクラブへの入り口(笑)としての役割を担わせようとしているのではないかという気がします。
昨今.Macの魅力の減退とリニューアルがちょっとだけ話題となっているようですが、その回答の一つにこの発表がつながるような気がしております。アップルという企業が、インターフェースに執拗にこだわり出した。OSとして、ハードとしての枠組みをすでに超越し、Googleのような既存のネットテクノロジーの延長線上に構築する世界観とは異なり、ネットサービスの自社専用化みたいな、ネットの世界のブランドの確立というか、うまく言えないけど、ネットでのアップルの再構築とその上での実社会への再回帰みたいな流れと仕組みを作り出そうとしている、そんな気がします。
すでにハードとしてはインターフェースの多様化は続々と整いつつあるように思います。MacintoshiPod、そしてiPhoneAppleの世界への入り口は少しずつでも確実に多様化、そして普遍化しつつあるように感じます。今までよりものすごく敷き居が下がっている。そしてiTunesSafariWindowsへの進出。それらの組み合わせた先に、.Macというパラダイスを築こうという流れがあるのかもしれません。iTunesは決してWEBサービスとしての一般性はないものでした。あれはアップルの専用の世界観と価値観にがっちり囲われたいままでWEBにはなかったサービスだったと思います。それが専用のインターフェースをもつソフトウエアとの組み合わせによっていとも簡単に実現してしまった。この戦略が再度.Macにて実現されようとしているのではないでしょうか。端的に言えば、素晴らしい.Macの世界へは「Safariでしかたどり着くことはできませんよ」ということになるのでしょう。そう、そのアップルのUIに守られて。
まあ、しかし、それはあくまで.MacがWinユーザーでも使ってみたいと思うようなサービスになることが前提。それを実現しうるかどうかはよくわからないし、故に邪推の駄文なのですが、でもなんかそんな気がするなあという今日この頃です。ぢゃあそのスペシャル魅力的な.Macサービスというのはいったい何なのか?というのはまたの機会に考えてみます。楽しいですよね、こういう妄想って(笑)

巻機山の再生

農大カフェで行われている展示をみていました。非常に素晴らしい功績であると素直に実感しました。こうした努力が30年という間、あまり人知れずそれでもしっかりと着実に力強く続けられてきたということに尊敬の念を禁じ得ません。ただただこの事業に携わってこられた多くのボランティアのみなさまに深く頭の下がる思いです。我々は建築に携わるものとしてこうした事実や重みをいかに受け止め考えながら、その中で自己の仕事の中に如何にしてその意義を理解し、生かしていくかを考えなければならない使命があると自然と思い至ります。今社会の中であらゆるモノ・ヒトが荒廃し、みるべくもなく無惨な醜態をさらし続け、また増殖しています。もう政治や社会がどうということではなく、社会が崩壊し、国家が自滅し、我々は有史以前といってもいいぐらいの自己責任とモラルに基づく個人からの出直しを求められ、またその事実に直面していると思います。自然への畏怖、いや、もっと大きな「あるべきモノ、あるべき姿への敬意」を如何にして自らの中に取り戻すか、または次世代へと伝える、いや、一緒に考えていくか、宗教ほどセンチメンタルでもモラリステ
ィックでもなく、設計者として、科学の、論理の側の一端として、もう少しずつ思考していきたいと感じます。from Treo680