「トリックアート」のない、だまし絵展

今年4月から6月上旬にかけて名古屋市美術館視覚の魔術 - だまし絵という展覧会が開催されていた。この展覧会はその後東京に巡回し、今はBunkamuraザ・ミュージアム奇想の王国 だまし絵展として開催されているらしい。タイトルが違っているので別の展覧会かと思ったが、展示作品に一部異同があるものの、基本的には同じ展覧会のようだ。ちなみに、東京展は8月半ばに終了し、その後兵庫県立美術館に巡回するが、今年間スケジュールを見たら、展覧会の名称は「だまし絵 アルチンボルドからマグリット、ダリ、エッシャーへ」となっている。なんでいちいちタイトルを変えるのか意味がわからないが、まあ何か事情があるのだろう。
さて、「だまし絵」というのは狭義には「トロンプルイユ」の訳語だ。本物そっくりに描かれた絵、特に額縁だとか絵にとまった蠅だとか、そういったもので人の目を騙すのがトロンプルイユだ。「そんな説明ではわからん!」という人は『図説 だまし絵―もうひとつの美術史』を参照されたい。
もっとも、今回のだまし絵展は「だまし絵」の範囲をかなり広く捉えていて、トロンプルイユではない作品も多く含まれている。エッシャーのトリッキーなリトグラフの数々を見て「本物そっくり!」と思う人はまずいないだろう。狭義の「だまし絵」ばかりでは飽きてしまうし、別に美術史的厳密さを追求する必要もないので、これはこれで結構なことだと思う。この展覧会をみに行ったのは結構前のことだが、アンチンボルト、鈴木其一、マグリットデュシャン、そして福田繁雄・美蘭父娘の作品が一同に会していることに感動したのを今でも覚えている。機会があればもう一度行きたいほどだ。
ただ、感動しつつも、頭の片隅に何か引っかかるものがあった。何かが足りない、欠けている、というより隠蔽されているという印象が残ったのだ。もちろん、限られたスペースで視覚上のトリックのすべてのパターンを網羅することはできないのだから、欠落があるのは当然のことなのだが、そういうレベルの話ではなくて、非常に大きなポイントがぽっかり抜け落ちているような気がしてならなかったのだ。
展覧会のあと、その奇妙な印象についていろいろ考えて、ようやく「抜け落ちているもの」の正体がわかった。
「トリックアート」が全くない!
見出しでもここでも「トリックアート」という言葉を括弧に入れて提示した。というのは、この言葉を本来の意味ではなく、昭和後期から現在にかけて綿々と伝えられ、日本各地の観光地などで広くみることのできる、チープで俗っぽいあれのことを指すために用いているもりだからだ。
いま試しに「トリックアート美術館」で検索してみると、

など、「いかにも」という感じの観光地に立地していることがわかる。
この種の「トリックアート」が、「ふつうの」美術館の常設展示室に展示されている光景はちょっと想像しにくい。ちょっと変な喩えかもしれないが、行列のできるラーメン屋が鎬を削る激戦区にカップヌードル自動販売機を置くような、そんな感じだ。しかし、「だまし絵」という切り口で古今東西の美術作品を展示した展覧会で、いわゆる正統的な美術界からは隔絶されているとはいえ、現代日本において見過ごすことのできない勢力である「トリックアート」を無視するのはいかがなものか。
いや、真正面からこの展覧会の企画に対して異議申し立てをしようとか、非難しようなどという気は全くないのだけど、何となく釈然とせず、心の中にわだかまりが残るのだ。もし、古今東西の美術作品を「エロス」というテーマで結集したときに秘宝館が無視されていたら、たぶん同じような印象を受けたことだろう。
……というようなことを考えつつ、ある日、この展覧会の図録を開いてみて*1、「おおっ!」と思わず驚きの声をあげた。
図録には明治学院大学山下裕二教授の「日本のだまし絵、あるいはトリックアートについて」という文章が掲載されているのだが、その冒頭は次のとおり。

この展覧会は、名古屋市美術館Bunkamuraザ・ミュージアム兵庫県立美術館の三館で開催される。だが、こんなに立派な美術館で開催される「だまし絵展」に出かけたあなたは、はたして、かの東京タワーの中にある「トリックアートギャラリー」を訪ねたことがあるだろうか。リリー・フランキー氏の著書や東京タワー50周年の報道の影響で、最近あらためて訪ねた人もいるかもしれないが、基本的に、内部の施設は「東京トワイライトゾーン」のままである。ここはまだ、昭和なのだ。
かくいう私も、実はここしばらく訪ねてはいない。「だまし絵展」のカタログに文章を寄せるのに、身近な「トリックアートギャラリー」を熟視していないとはけしからん、と自ら反省して久しぶりに訪ねてみたら、これがまあなんと、あらためて面白いこと。
写真、取り放題。というか、「見て、触れて、写して遊ぶ」との謳い文句で、観客の満足度はかなりのものだろう。私は、立派な美術館との仕事をずいぶんしているけれども、黄昏時に東京タワーを訪れるトリックアートギャラリーの一観客でもある。独りで行ったので、たまたま居合わせたまばらな観客のうち、アベック(死語ですが)の男性の方にシャッターを切ってもらった。画面から飛び出す、ウミガメと私。

この後、「そもそも絵画とは」と切り出して、山下教授の専門分野である日本絵画におけるだまし絵の話へと移行し、「立派な美術館」の展覧会の図録にふさわしい文章が続くのだが、最後の最後に再び「トリックアート」に話を戻している。この箇所が非常に興味深い。

さて、インターネットで「トリックアート美術館」と入力して検索すると、たちまち、日本全国にあるその手の「美術館」がヒットする。東京タワーだけではない。ちょっと調べただけでも、高尾山、那須、日光、軽井沢を始めとして、北海道の富良野、九州の大分まで、昭和の民衆の欲望に応えるべくつくられた施設は、全国にかなりの数が存在している。昭和の一時期、各地の観光地につくられた「秘宝館」は次々と閉館し、その一つの所蔵品を、知人である作家・写真家の都筑響一*2氏が一括購入したという話を数年前に聞いたが、「トリックアートギャラリー」あるいは「トリックアート美術館」のかなりは、いまだ健在らしい。機械仕掛けなどで大がかりな設備が必要な「秘宝館」に比べ、メンテナンスの費用がかからないからかもしれない。
だが、「トリックアート」も、基本的には、昭和の産物である。かつて、其一、暁斎、是真らが邁進した描表装が、わずか数十年でその流行を終えたように、これから閉鎖されていくかもしれないと、東京タワーの中で思った。

「トリックアート」のみならず、なんと秘宝館にまで言及しているとは! 自分の思考が読まれて先取りされているようで、少々薄気味悪く感じたほどだった。
実は、いま引用した箇所は、「日本のだまし絵、あるいはトリックアートについて」の本論とほとんど関係がない。このマクラとサゲの部分を削除しても、全く支障なしに読めるのだ。
いや、違った。あと一箇所だけ「トリックアート」に言及しているところがあった。

だが、東京タワーを訪ねた直後にこの原稿を書いている私は、おおげさに言えば「大衆の欲望」(嫌な言い方だが)みたいなものと、「立派な美術館の展覧会」とのギャップに、少々悩んでもいる。いまさらこんなことを言っても仕方ないのだが・・・。

展覧会の企画に参画した人物をして「少々悩んでいる」と言わしめたギャップが、一観客の心の中にわだかまりを残したのだろう。
ところで、一つ前の引用文中で言及されている全国各地の「トリックアート美術館」のうち大分のトリックアート不思議な美術館には昨年訪れたことがある。昭和の町に行ったついでに立ち寄ったのだが、当時の旅行記には次のように書いてある。

で、その「昭和の町」から歩いて数分のところに昭和とは何の関係もなさそうな高田モダントリックアート不思議な美術館という施設があって、そのアンバランスさが楽しかった。どうせなら、ガラス工芸やオルゴール関係の施設もあればよかったのに。

山下教授の文章を読んだ今、「昭和とは何の関係もなさそうな」という評価は取り消さなければならないだろう。この「美術館」は開館したのはつい最近のことだが、「昭和」と密接な関係があるのだから。
ちなみに、最近、別府にもオープンしたそうで。秘宝館はいまや風前の灯火だが、「トリックアート美術館」の落日はまだまだ先のようだ。

*1:ふだん、展覧会の図録は買いっぱなしでほとんど積ん読状態なのだが、部屋の整理をしたついでにたまたま開いてみたのだ。

*2:【引用者註】正しくは「都築響一」。