「それはお寿司ではない」

どうしても寿司が食べたくなる時があって、とはいえセレブではない身、スーパーで閉店間際の売れ残りの半額寿司を食ってまあ満足してしまうわけです。でも、たまにはもうちょっとマシな寿司が食べたくなってしまう。とはいえカウンターのお店に行くわけでもなく、庶民の味方、回転寿司に。

まあ所詮B級な口ですから、一皿500円とかするお店には滅多に行かないわけです。たまたま新宿方面にいたらヨドバシに行く途中の地下の沼津港が美味いと思っていて、家の近所だと銚子丸がまあまあかな〜と思っていたりするわけですが、100円代で食わせる店も意外と食えるわけです。圧倒的にいいのは平禄寿司で、大江戸はまあまあ、という感じかな。※美味しさの感じ方には個人差があります。

んで、いわゆる「かっぱ寿司」系(くら寿司とかスシローとか)はほぼ行ったことがなかったんだけど、この寿司衝動を何とかしようと思って行って見ることにした。行ったのはスシロー。

………………

…ええと、ここはお寿司屋さんですか?

角煮とかローストビーフとか乗ってるし、角煮はともかく、ローストビーフはご飯のおかずじゃないだろくらいのイメージで、あとはなんだかサーモンばっかり。光物はなし。極めつけは、全品わさび抜きという(お店のルール的には本来皿の色で分けているんだけど、客層の都合か、注文も含めて全部サビ抜き)。

まあ寿司屋に来て肉食う意味がわからないので魚が乗っている(握ってあるのではなくて乗っているだよ)ものを頼むんだけど、わさびを自分で外側につけるのって新しすぎてついていけなかったよ。刺身のご飯(お酢風味)乗せですね。

うん、別にこういうのがあってもいいと思うんですよ。結局のところ、ご飯の食べ方の一ジャンルみたいなもので。僕はお茶碗とおかずの皿でいいんですけど。別に酢飯じゃなくていいし。

でも、これをもって小さい子が「お寿司大好き!」って言っているとしたらちょっとね。それはお寿司ではないのよみたいな。でも若い世代にとっての寿司ってこういう食べ物になっていくのかな。

文脈を損ねないようにしようと思ったら、全文の半分以上を引用してしまった。
言わんとするところはよくわかる。でも同意できない文章だ。なぜ同意できないのかといえば、この文章で「寿司」という語で想定されている食べ物の範囲が極めて狭いのに、その中で「それは寿司ではない」というような言い方が平然と用いられているからだ。
はてなブックマーク - みんなが「寿司大好き」であることに疑問を抱く日 - novtanの日常からいくつか引用しよう。

本当の寿司ってなんなんだろうね。握り寿司自体が亜流だしなぁ。江戸時代の握り寿司は大きさがいまの2,3倍あったらしい。小食の人なら一貫でお腹いっぱいみたいな。

たしかにあんなのは寿司じゃない。江戸時代の寿司はもっとおにぎりみたいに大きかった。/ 「JUDOは柔道じゃない」みたいな? http://www.asahi.com/culture/food/gallery/130306sushi/

握るのも邪道なら酢を使うのも邪道。あなたは鮒寿司だけ食べていればいいんじゃないかな

寿司の歴史については寿司 - Wikipediaあたりを参照されたい。スーパーの寿司もカウンターの寿司屋の寿司も回転寿司も全部ひっくるめて、日本の豊穣な寿司文化のごく一部を占めるに過ぎない。ほんの数十年前まで典型的な寿司とはお盆などの特別な機会に親戚一同に振る舞われる家庭料理だった。家庭料理としての寿司が仕出し寿司に置き換わり、他方、外食としての寿司の中核を占めた寿司屋台が規制されて店舗化され、紆余曲折を経て現在では回転寿司が主流となっているが、100円均一寿司とグルメ系回転寿司の分化などここ十数年のことに過ぎない。
上の引用文の筆者が、たとえばめはり寿司を食べたなら、「それはお寿司ではない」と言うのかどうか、ちょっと気になる。なぜめはり寿司を例に挙げたかというと、この寿司は酢飯ではなく、普通に炊いたご飯を高菜の漬け物で巻いたものだからで、寿司ではない「ご飯の食べ方の一ジャンル」と評するのではないかと想像したからだ。
多くの人は、物事の標準が何であるかについての認識を自分の体験を通じて形成していく。先に「言わんとするところはよくわかる」と書いたのは、まさに上の引用文が自分の体験を通じて形成された寿司観に基づくものだったからだ。だが、人は体験のみにて生きるに非ず。はてなブックマークでの指摘はそのことをよく表している。

おまけ

話題そのものは全然関係ないが、ふと「ほんとう」の暴力性 - 高度に発達した気遣いは、気違いと区別がつかないを連想した。

追記(2013/08/02)

上で引用した文章の補足から。

まあ、ああいうことを書くと「山岡士郎海原雄山」とか「寿司はファーストフード」的な知った感じのコメントを頂くことが多いわけですね。

寿司はこうでなくてはならぬとか言いたい訳じゃなくて、「僕の知っている(期待していた)寿司と違った」「寿司の形態であることが最適じゃないものを寿司って言わなくてもいいんじゃないかな」というくらいで。

正直なところ「回転寿司はエンタメ」「親としては楽」なんてコメントをみると「食い物で遊ぶんじゃない!」と思わなくもないんだけどね。とはいえ存在自体否定はしないけど。

「僕の知っている(期待していた)寿司と違った」と「寿司はこうでなくてはならぬ」はもちろん別のことだが、間に「それはお寿司ではない」を置くと自然に繋がるのではないか、という疑問もあるのだが、それよりよくわからないのは「寿司の形態であることが最適じゃないものを寿司って言わなくてもいいんじゃないかな」という箇所。「寿司の形態であることが最適じゃない」というのは、酢飯にあわない食材をネタに使っているとか、そういったことだろう。だったら、それを「寿司」と呼ぶかどうかが問題なのではなく、「そういう食べ方はおいしくないでしょう」というような論調になるのではないか。実際、元記事の終わりのほうにはそういうことも書いてある。だが、「それはお寿司ではない」の前のほうには「別にこういうのがあってもいい」とも書かれているので、この表現は実体としての食べ物の味についての評価というより、それを寿司にカテゴライズすることに対する異議申し立てのように読める。
たぶん、これを書いた筆者本人も、自分がイメージしている寿司からかけ離れたものに触れた違和感が主に「それが寿司の形態をとっていること」に対するものか、それとも「それが寿司と呼ばれていること」に対するものかが、よくわからないままなのではないかと思われる。