月陽炎

月陽炎 ~つきかげろう~ DVD edition

月陽炎 ~つきかげろう~ DVD edition

僕はこの作品を、本編シナリオと「千秋恋歌」のシナリオを全て読み終え、(僕が恋愛ゲームを好きであるところの最たる)どきどきするような清々しいような夢見心地に、いま満たされています。けれど、どこか表層的でない物足りなさ、肝心なものが欠けているような感じがしてなりませんでした。それは、作品としての「トゥルーエンド」がない(あるいは見出せない)ということです。
もちろん、ヒロインごとにエンディングがいくつも存在し、バッドエンドやハッピーエンド、ベストエンドという風に区別され見なされる、マルチエンディングタイプの作品であることに違いありません。
この作品は、特定のエンディングを経ることで次回プレイ時のプロローグ部分が変化し、それまで出現しなかった選択肢が現れるようになり、それを選択していくことで物語が進展していきます。プレイを重ねることが単線(シナリオ)を乗り換えるだけの機械的な作業ではなく、1つの世界においてプレイヤーのゲーム性(粗末なものではあるけれど)として物語を膨らませ、拡げていく"道しるべ"となり、与えられた選択肢を選択することから一歩出て、プレイヤー自身が物語を方向付けているという意識を生む。それは、愛すべきヒロインとのなにより幸せなエンディング(未来)をつかみ取ろうとするほろ甘くも無垢な欲求によって強化され、わだかまり少なくプレイを繰り返すことに繋がるのです。
プレイを重ね、新出の選択肢を選ぶことで、未知の物語が開拓されていく。しかしそうして育っていくエピソードの枝葉は、ヒロイン個別のエンディングと一体となっているために、世界は拡張することがあっても、貫通せず、物語は膨張することがあっても、完遂しない。つまり1つの作品として徹底したテーマ、実現すべき思想(いわば作品としての「トゥルーエンド」的なもの)が希薄で、結果、ヒロインごとに編纂された骨のある二次創作集、できのいいアンソロジーのような印象を抱いてしまいます。感動が分散し、集約されることなく終わってしまっているのです。
さらには、マニアックで我執的な主人公の性意識と、絶倒的で狂気すら感じられる数々のセックスシーン、(理由有るものもあるけれど)度を越えて快楽に耽溺するヒロインを何度も見せられると、ますます「何なのだろうこの作品は」と戸惑ってしまう。それはまるでオリジナル作品を知らずにパロディ同人誌(18禁)を読んだときのように。
月陽炎」という作品について。概してオーソドックス、稚拙といってもいい伝奇物語、ボリュームのある(アホみたいな)濡れ場、シナリオ構成にちょっぴり趣向を凝らした、惜しまれる佳作。

物語を紐解く度。それはいろんな可能性を見せてくれる。
あこがれ。愛。夢。憎しみ。絆。
物語は紐解いた人たちの中に、無数の可能性を見せながら幕を閉じる。
ねぇ。みつかりましたか。あなただけの、物語……。

これは作品の実際のありようを表すものであり、同時にきれいで卑怯な逃げ口上ともいえるのではないでしょうか。それは僕ら(プレイヤー)の甲斐性の問題であって、貴方たち(制作者)が関知することではないだろうと、思うのです。
たとえば徳川家康に不必要な疑念を抱かせないために天守を建設しなかった伊達政宗のように、二次創作を促し作品人気を安定させるためにあえて"天守"を"建設"しなかったかのようなこの作品は、1恋愛ゲームファンとして惜しいし、もったいない。作品のデザインセンスが良いだけにそう思わずにはいられません。
オリジナル作品であるにもかかわらず、そのあるべきオリジナルを「無数の可能性」というあってなき曖昧として美しく欺いた。いったい誰を欺いたのかといえば、それはプレイヤーというよりもむしろ制作者自身。「無数の可能性」についてわざとらしく言及するよりも、たったひとつの本当を信じさせて欲しかったのです。
バッドエンドを経験することでハッピーエンドへの道のりが開かれるという、作品の構成的な妙を十全に生かすのなら、全てのヒロインのベストエンドを経験することで作品としてのトゥルーエンドへ至る終章が幕を開けるべきではなかったでしょうか。それは恋愛ゲームにとっては常套的なアイデアであり、事実「千秋恋歌」の鈴香シナリオ(3回目のエンディング)はそういった性質を帯びたシナリオといえるでしょう。それをファンディスクで補完するというのも情けない話ですが。
そこで僕は思うんです。プレイヤーのゲーム性とその意欲がそれなりに試された作品であるのだから、主人公に対し"それを報いさせる"べきだったのではないかと。たくさんの、あこがれ。愛。夢。憎しみ。絆。それこそ目の眩むような恋を豪奢に描いてきたのだから、トゥルーエンドくらいはせめて、そういったものに拘泥せず、全ての人の願いが束ねられ昇華した形としての作品統括的な"やさしいメルヘン"を、(エロいだけではない)主人公の存在にかけて実現して欲しかった。
とはいえ、そうした僕の願いこそ、作品として「あなただけの、物語」のうちの1つとして規定されたものであることもわかっているのです。全ての人に幸せになって欲しい。だからこそプレイヤーは自己矛盾を恐れず全てのヒロイン(その幸せ)を"攻略"するのであって、「無数の可能性」とは、全ての人に幸せになってもらうための僕らの"脳内方便"。そうして「わたしだけの、物語」は誕生するのですから。
プレイヤー物語をより充実してもらうために、あえていくつかの不可解を残し作品としてのトゥルーエンド(世界の幸せ)を組み込まなかったと、この「月陽炎」という作品は言い訳がましく主張している気がしてならないのです。