車輪の国、向日葵の少女

車輪の国、向日葵の少女  初回版

車輪の国、向日葵の少女 初回版

このギャルゲーは、僕らを欺きます。深く、激しく、それこそ気が滅入るほど精神を揺り動かして何を騙すのかといえば、「恋愛を騙す」。そうして恋愛を騙した先に、ヒューマンドラマが誕生し、騙された先にある人間そのものに、僕らはこっぴどく感動させられてしまうです。
恋愛ゲームというものに登場するヒロインは、総じてかわいく、美しい。何の根拠もなく、何の意味もなく、ただそこにあるがままのかわいさと美しさは、安易に絶対的であり、決して衰えることがありません。かわいいかかわいくないか、美しいか美しくないかではなく、かわいいか"そこにいないか"、美しいか"存在しないか"、そのどちらかしかありえないものです。
しかし、「車輪の国、向日葵の少女」に登場する3人のヒロインは、どんなに気に入らなくとも、嫌悪感を抱いてしまうほど醜くなろうとも、"そこに堂々と存在している"という意味で、そら恐ろしいギャルゲーだということができるでしょう。ある時は花を愛でるようにかわいく、ある時はうっとりしてしまうほど美しいヒロインたちを徹底的に貶め、誰もが気に食わない、醜く思える人間へと仕立て上げていきます。それは陵辱や調教といった物理的手段ではなく(むしろそのほうがよほど救われます)、人間性(ヒューマニティ)の美顔を剥ぎ取り、理知を暴き立て、本性を剥き出させるという内心的手段によって。

 「世の中は、たとえどんな社会でも、知識と教養があって、決断力と行動力があるような、頭のいい人たちが支配しているんでしょう? 私のような頭の悪い人は、ずっと利用されて生きるんでしょう? でも、気づかなければ、幸せだから……そういった頭のいい人たちに、いっつも責任を取ってもらえれば、すっごい楽ちんだから……それで、いいよ……私はただ……みんなが、そしてなにより私が傷つくのが、嫌なだけなんだよ……弱い、弱い、お子様なんだよ……」

 「何も考えるな。人間は、えてして考えるから不幸になる。おまえは、ただ黙って、殴られた痛みを覚えていればいいのだ。そうすれば、幸せが待っているぞ」

腹が立つほど弱くて愚かなヒロインの言葉と、強靭で過酷な真理に吐き気がする法月将臣の言葉。その狭間でもがき苦しむ主人公のありさまは、プレイヤーの心の荒みとくんずほぐれつで物語をさらなる奈落へと落とし込んでいきます。
生々しく、目をそらしたくなるほど愚鈍なヒロインたちを、ヒロインであるからこそギャルゲーだからからこそ見つめていかざるを得ない(逃げられない)プレイヤー。それゆえに、ドラマの結末に魂を激しく揺さぶられる大いなる権利がプレイヤーにはあるのです。弱いからこそ(弱さを知っているからこそ・自分が弱いからこそ)、強くあろうとする姿に感動できる、愚かだからこそ(愚かさを知っているからこそ・自分が愚かだからこそ)、全てを受け入れようとする姿に涙する。
弱音と自己弁護を泣き叫ぶ醜くもあられのないヒロインの姿に、無力感にすら襲われる未曾有の修羅場、迷いに迷い一進一退しつつもようやく気づいていく大切な絆、そうして彼女の見せる清々しい笑顔は、容赦なくかわいくて、途方もなく美しい。その根拠は劇中に描かれ、その意味は劇中に見出され、その絶対性は主人公とプレイヤーが連帯して保証するところなのです。彼女たちは、ヒロインである前に人間であり、僕らは、プレイヤーである以上に人間であるという根も葉もない共感のもと、"人間であること"それ自体に感動できる、"人間としての"ヒロインを愛してしまう、まさに掛け値なしに素晴らしいヒューマンドラマだということができるでしょう。
ただ惜しむらくは、その厳重なストーリーに、恋愛の甘みを心地よく浮かび上がらせる余地があまりにも少なかったということ、作品にとっての不幸は、ギャルゲーの宿命として恋愛要素をプレイヤーの目を引く形で挿入しようとしたばかりに、各所で無理を生じているということでしょう。時系列に沿って各章が進み、それぞれに担当する(メインとなる)ヒロインが設定されているので、前章で恋愛関係に至った場合、後章のストーリーで違和感が生じてしまっているのです。ましてや、「恋愛できない義務」を負った日向夏咲のシナリオを、前章にて別のヒロインと恋愛関係を結んだ上で進めるとなるともはや致命的ですらあります。
恋愛感情をとっくに織り込んだ上での深遠な内心性、そもそも、高校生風情に恋愛感情抜きで異性の精神に介入することなどできるわけがありません。にも関わらず夏咲以外のヒロインと恋愛関係を維持したままストーリーを展開させようとしたことが、その努力(辻褄合わせ)は認めるにしても土台無理な話だったのです。
人として生きるということ、その普遍的な哲学をギャグ・シリアス緩急自在に描き上げてきた1つの物語、主人公の圧倒的な"格闘"に3人のヒロインが恋愛面を含めて人間関係的に深く結びついてしまっているがゆえに、物語終盤では感情が入り乱れ、流されてしまっています。それまで明晰な言葉を尽くした観念的な物語であったのを、不可解な物理的障害に置き換えられ、それを主人公とヒロインたちの少年ジャンプ的なパワーがくつがえし、乗り越えていく。すると何の根拠も示されず途端に"やさしく"なってしまう現実のもと、お子様向けギャルゲーもびっくりの夢想的なハッピーエンドを与えられたとき、果たしてプレイヤーは拍子抜けせずに満たされることができるでしょうか。

 「こうやって瞳を閉じて、誰かを想うの。あの人に向かって進むんだっていう意志を持つの。それは、言葉にはできない、圧倒的な力」

第3の欺き、それは「恋愛を騙す」ということ。つまり、
年ごろの少年少女が当然のように恋愛感情を抱き合いながら、醜く嫌悪的にむきだされた本性と対峙し、凝視し、一進一退の末ついに真っ直ぐと組み合い、受け入れていく覚悟を決めていくストーリーなのだから、わざとらしく"けばけばしい"、それだけで世界が完結し救済される恋愛万能主義とは縁がないという意味。
のはずであったのに、1つの物語に3つの恋愛軸を無理にこじ入れようとしたばかりに、かけがえのない物語が惨めにブレてしまい、取ってつけたようなエンディングを招じ入れることになってしまったという意味。
1つの物語その一貫性を考えれば日向夏咲エンドこそがトゥルーエンドであるはずなのに、彼女とのエッチシーンはエピローグの1回しかなく、イベントCGも全ヒロイン中最少。反面、主人公の"成り行き"と"節操なし"でたまたま付き合うことになった大音灯花シナリオでは、エッチシーン(いちゃいちゃ含む)がとても充実しどれも妙に気合が入っていて、しかもイベントCGは全ヒロイン中最大を誇っているという意味。
「誰かを想う」という「言葉にはできない」(=少年ジャンプ的な)「圧倒的な力」のいしずえを、恋愛ではなく(それすら超越した)より根本的な意味(人間としての)での繋がりに求めている点で、それは正真正銘ヒューマンドラマだといえなくもありません。
とはいえ、実際は「森田賢一、おまえは結局何がしたかったのか」と、「試験のなりゆきで"たまたま"関係してしまった女の子と事後ラブラブできればそれで良かったのか」と、低俗な恋愛レベルで憤らずにいられない。恋愛を超越しているというより、中途半端に騙しているに過ぎないのですから、しようがありませんよね。
ギャルゲーであって恋愛に留まろうとしない野心を、重厚で尖鋭的な世界観へと戦慄的に撃ち込み、善悪美醜含めた人間そのものを、愉快なキャラクターたちの苛烈なうねりをもって描こうとした衝撃作、「車輪の国、向日葵の少女」。もし僕がプロデューサーであったなら、法月将臣エンドや卯月セピアエンドは絶対入れたかったし、本編中で無理にヒロインと恋愛したりせず、いっそ本編終了後のエピローグにベタな学園シーンを設定したかったですね。そこでいくつかの選択肢を選ぶことで改めて各ヒロインエンドへ分岐するか、最強のハーレムエンドw
長々と書いてきましたが、とても印象に残る作品であったことは確かだし、まず間違いなく大好きな作品になりました。本編補完シナリオを含むファンディスク、何よりサントラは絶対欲しいです。「憂藍」という曲が無性に気に入ってしまいました。
でこでこでこりーん
ソフトがもっと売れないとサントラも発売できないような話が書いてあったので、応援バナーを貼っておこう。やっぱ灯花だよなぁ。