FESTA!!

FESTA!! ~HYPER GIRLS POP~

FESTA!! ~HYPER GIRLS POP~

人の思いを裏切って、安易な解答を与える粗末なファンタジー

たとえば、先生が黒板にとある証明問題を提示します。それはもしかしたら学校でこれまで誰も解けたことがない難解な問題。指名された生徒は当然のように悩みます。頭をひねり、眉間にしわを寄せながら長い時間沈黙し続けていた彼は、やっとの思いでとある解法に辿り着きます。それは甚だ心許なく、とても自信のもてるものではありませんでしたが、けれど黙ってつっ立っていても仕方がありません。意を決して彼はチョークを手に取り、黒板に向かい、書き入れようとしたまさにその瞬間。先生はこう言うのです。

「ただ人の力のみでは解消できる性質のものではなかったのですの」

その生徒の解法は間違っていたかもしれません。それまで誰も解けたことのない問題ですから、そもそも彼に解けるわけがありません。けれど、どれほど難解な問題であったとしても、それが神の領域に属するような困難であったとしても、解き明かそうとするその生徒の意思、克服しようとする人の意志こそが何よりも大切であり、尊重されるべきはず。しょせん子供だましの理想論、そんな簡単に克服できるようなものではないことは"歴史"が証明している。しかしそれでも、その生徒に勇気を与え、応援し、挫けないように支持していくことが先生に与えられた役割であるはずです。
しかし「FESTA!!」という作品では、先生というファンタジーが生徒の考え抜いた解法を無情にも却下します。黒板にチョークを当てる生徒をやんわりと止めさせて、「よく頑張ったね、でもそれは君には解けない問題なんだ」と諭し、解法を魔法みたいに端折って解答だけをさらりと書き入れます。いったいその時その生徒はどんな顔をしていたでしょう? 僕はそんな顔を今実際しているのだと思います。
人の想いを最期に見放すファンタジーは、そもそもファンタジーの名に値するものなのか。「FESTA!!」の物語はいったい誰のためのファンタジーだったというのか。その生徒が指名されてから先生に手を止められるまでを"馬鹿げたまつり"として元よりこけおどすつもりだったのか。非常に残念というより、不可解、むしろ「よくぞそこまで台無しにしてくれた」と喝采を送りたくなるほど、その祭りのあと(今)は不本意なまでに虚しいのです。

自由で主体的な物語構成、純粋な遊び心を機能的に両立させるストーリースティックシステム

この作品で特徴的なのは、物語をイベント単位で分割し、それらイベントを繋げて物語を構成していく作業をプレイヤーの意思に委ねているストーリースティックシステムです。夏休み直前から休みを挟んで9月中旬の学園祭後までを物語期間として、8幕に分断し、それぞれに7つのイベントを配置。各イベントは、たとえば特定のヒロインの好感度を増加させるもの、催し物、勉強、食事やギャグ特化など明示的に種別され、重要度によって3段階に格付けされています。その中には強制的に選択しなければならないものもありますが、大部分が自由に順不同で選択することができ、1幕で4イベントを選択した時点で未選択のものは消滅、次幕のイベントが総入れ替えで現れます。
もちろん、自由に選択できることを保証する時系列や因果関係的な配慮もきちんとなされています。たとえば、知らないはずのことを主人公が知っていたり、何の前触れも約束もなく物事が発生するというようなことのないよう、辻褄に関して最大限フォローされている。また、いくら自由度があるとはいえ、ヒロイン別ストーリーを進めるための好感度イベントが多すぎれば、事実上選択の余地はなくなります。しかし各幕でヒロインの好感度に関わる重要イベントはといえば、せいぜい2〜3程度、平均すれば1幕1ヒロインにつき1イベント。
好きなヒロインばかりと会って、あるいは彼女のことばかり考えがちな一般的な恋愛ゲームは、主人公のいかにも閉鎖的で自己中心的、自意識過剰さに疲れてしまうことがままありますが。この作品では、特定ヒロイン攻略に欠かせない好感度イベントはもちろんあるけれども、重要度に応じてそつなくこなしていけばゲーム的に問題ないというゆとりの元、ヒロインの好感度に直接影響しないイベント、ユニークでぶっ飛んだギャグイベント、シュールでエキセントリックな広原翔イベントなど、バランスよく配置されたそれらをプレイヤーの好みで余裕を持って選べる。物事に執着しない主人公の性格もあってか、不思議とくつろげるんですね。
イベントごとに未読・既読かスタンプされていることもありがたい。既読スタンプ数が現時点での達成度であり、同時に明瞭な道しるべとなるのだから。なにしろ全てのイベントをこなすことがとりあえずコンプリートへの道ですからね。

主人公を中心にした漫才的なノリのよさに臨場感を与えるマルチウィンドウシステム

このシステムの画期的な面は、プレイヤーが自由気ままに"息抜き"することをシステム的に保証し、それがプレイヤーを作品へ集中、没入させることに繋がっている点です。画面内に会話ウィンドウが咲き乱れるようなマルチウィンドウシステムは、芸人然とした主人公を中心に、軽妙なノリとヒロインのお約束的なボケ、間髪なく炸裂する見事なツッコミが飛びかうユーモラスな臨場感を、鮮やかに盛り上げ飽きさせない。
ストーリースティックがイベントを繋ぎ、マルチウィンドウが場のノリを繋ぎ、この2つがプレイヤーを繋ぐ。8幕が終了するとストーリースティックシステムは停止し、それまでの選択の結果としてヒロイン別の単一ストーリーが始まるのですが、それまでさんざプレイしてきたのにそれほど疲労感を感じさせることなく、集中してヒロインシナリオを読み進めていくことができたのは、それら巧みなシステムによるところが大きいといえるでしょう。
主人公の"日常"(それ自体十分すぎるほど突拍子もないものではあるけれど)をプレイヤー自身が気安く構築していくことができるからこそ、非現実的なまほろば市と、非日常的な学園祭、主人公の自省と思想、つまり作品性が面白くおかしくしなやかに僕らの身近な感性へと着地していく。くだけた内容ではあれ作品としてはあくまで誠実なのだと僕は思いました。
ただ残念なのは、ヒロインとの恋愛や、作品テーマを真面目にプレイしたい、それだけを潔癖に堪能したいと思ったとき、4イベント×8幕ではやや散漫に過ぎ、イベントを自由に選択できることが、かえってプレイヤー自身で物語をチグハグなものとして構成してしまう危険性を秘めているという点。下手をすると、ヒロイン別のシナリオへ突入する頃には集中が切れ、浅くしか没入できなくなってしまいかねないのです。真面目な気持ちでプレイしようとするほど肩透かしを食らってしまうという皮肉。まぁ確かに、あの序盤を経て「真面目にプレイしよう」と思っていられる人も皆無でしょうけどね。
たとえば、4枠の全てを選択し消化しなくても次幕へ移れることができたら良かったかもしれません。そもそも1幕で4つのイベントを消化しなければならないという縛りに、積極的な意味は見出せないですしね。作品をまったりと味わいたいのなら4枠全部を使って楽しめばいい、特定のヒロインとの恋愛、あるいはその物語だけを味わいたいのなら切り上げればいい、そういう自由度もあって良かったんじゃないかと思いました。

境界線という表層に囚われず、作品テーマを印象的効果的に掘り下げた演劇対決

各ヒロインとの仲を発展させ、ストーリー自体を進展させていくことと密接に関わったイベントとして現れてくるのが、演劇に関係するイベントです。物語と主人公・ヒロインたちの目的として、学園内を半分に分かつ境界線の移動を賭けた町別対抗の学園祭で、勝利するというものがあります。その学園祭対決で勝敗を分ける最重要の催し物、それが演劇。町同士の争いを嫌悪し境界線をなくそうと決意、そのためにまず演劇の成功を目指そうとするヒロインに、主人公と他のヒロインたちが協力するという形で物語は進行するので、各ヒロイン別のイベント(ストーリー)はつまり、学園祭の演劇にどう携わっていくかということが主軸になります。
過去の因縁が原因で、同じ市内にも関わらず境界線を引いて住み分け、対立しているこの2つの町。けれど学園内の境界線の増減あるいは撤廃についてだけを描くのであれば、不幸にも2つの町に分かれてしまった男女の恋愛を直球でもってくればいい。友だちがふたりの恋を応援する、そのやさしい想いの広がりをもって学園内の境界線を撤廃する気運へと結び付けていけばいいのです。確かに安易ではあるけれども、恋愛ゲームであればその程度の安易さはお約束として許容されるものでしょう。少なくとも骨組みとしてはそれで十分といえるのではないでしょうか。
しかしこの作品においては、恋愛は徹底して各町別でなされます。ゲーム開始直後に現れる選択肢によって主人公の"所属"が決定され、恋愛対象となるのは選択された町に"所属"するヒロインたちのみ。誰もが嗅ぎ取る安易さと決別しながら、この滑稽な町同士の対立その不毛さを指摘し撤廃への願いを象徴的に描くものが、この演劇なのです。
ヒロインたちと主人公を役者に仕立て演じられるそれは、両町対立の発端とその真相を古代にまで遡って詳らかにし、理由も知らず理不尽なその現実に閉じ込もっていることの愚かしさを童話的に表現する、2つの劇中劇。演劇への取り組みが主人公とヒロインの恋愛にとって不可分なものであり、この作品が真剣な恋愛物語でもある限りにおいて、この2つの演劇が語ろうとする1つのテーマは、体育館をこだまするようにプレイヤーの胸へ切々と響くことでしょう。

えげつないテキストとやかましい主人公

ただ、その演劇を完成させるために"犠牲"となったかのような日下部琴子シナリオは、まるで酷い。それはまさに"設定資料集"、なんたらのみことだのなんたらのみやだのといった、漢字10字にふりがな30字付けちゃうよ的日本神話解説がウィンドウを延々埋め尽くし、さらにはライター個人の読書趣味からこじつけの薀蓄まで仰山詰め込んだステキな衒学テキストは、日下部琴子のおっとりとした喋り方と、そのくせ辞書的な解説口上のトリプルパンチ、もう気が狂いそうでした。未読スキップ機能がこれほどありがたいものだったとは……。
てか「はじめての構造主義」とかどーでもいいよ! 具体的な書名とか著者の実名出す必要ねーだろ! 本なんて全然読まない俺を馬鹿にしてんのか? つーか未成年なのにビール飲んで警官の職質に「態度が気に食わない」と難癖つけて銃刀法違反のヒロインが傷害罪犯すのを「殺さなければいい」のたまう主人公がどの面下げて愛だの幸せだの世界平和を語りやがるんだよ!! ごめんなさいなんかすっごい癪に障るんです、この黒田孝弘という人@天然モテ系。
作品として優れた部分があるのは確かに認めるけれども、理屈的に、感情的にも受け入れられない部分がたくさんあるのもまた認めざるを得ません。作中に充満したパロディや自虐ネタ、ネット的表現はどこまでも浅ましく、むやみにひけらかされる見識は物語から離反して浮つき、トゥルーシナリオ出現の条件として選択の余地をなくした広原翔エンドも含めて、「FESTA!!」のサブタイトルを「HYPERやり過ぎPOP」に変更しましょうするべきだしなければならない。

黒田孝弘は最期まで"黒田孝弘"でなくても良かったのではないか

全てのエンディングを達成することで開放されるトゥルーシナリオは、それまでのエンディングで救われることのなかった千神奈々子に関するものです。僕は知らなかったのですが、どうやら彼女はLASSというブランドの既2作品にも登場するヒロインで、このシナリオでは、「FESTA!!」を含め3作品に登場していることの真相が語られ、救われ、主人公と結ばれるものです(既2作品ではそうならなかったのでしょうか)。けれどそれについてはどうでもいいんです、僕は。ただ酷いなと思うだけです、冒頭に書いたとおりに。
500歩くらい譲ってこういうのもアリだとすると、いくつか残念な点が出てきます。
千神奈々子が先祖より受け継いだアイテムを使い、世界の歪みを修正するシーンをいっさい描いていないこと。千神奈々子ノーマルエンドで主人公と別れたあとの顛末を、せめてトゥルーシナリオの冒頭にでも描いておくべきだったでしょう。何もこの作品のヒロインは彼女だけではない、彼女以外にも素敵な女の子はたくさんいるし、彼女たちの幸せをそれぞれ達成し、条件を満たしてさぁトゥルーシナリオを紐解こうとしたら、まるで最初から千神奈々子にしか眼中になかったとでも言うかのような主人公の振る舞いには、ただただ戸惑うばかりでした。
②1つの世界の愛する千神奈々子を蘇えらせるために、999の世界の千神奈々子を時空を超えて救いに行く役回りは、そもそも黒田孝弘でなくても良かったのではないかということ。「Ever_17」ではないけれど、僕はこのときプレイヤー自身が登場するべきではないかと考えていました。平行世界全てに存在している千神奈々子は、LASSというメーカーが仕組んだものであるのだから、平行世界全てに行き来できる存在は、プレイヤー自身であるべきなのです。なにしろLASSというメーカーの制作したこの作品(ソフトウェア)を、購入したのは僕たちに他ならないのですから。
このシーンは、黒田孝弘などという「FESTA!!」内の一過性な存在ではなく、僕らのまたひとつの分身でもある"プレイヤー"に登場を願うべきところでしょう。黒田孝弘が999の世界を行き来して「奈々子の犠牲なしに、999番目の世界から歪みを取り除いたぜ……」と言い放ったとき、シリアスなシーンであるにも関わらず笑いが止まりませんでした。ひどい茶番劇、あまりに台無しすぎです。

だから僕ならこう描く、僕のためのトゥルーシナリオ

黒田孝弘の受け継いだアイテムによって、彼とプレイヤーの存在が"分離"し、"プレイヤー"は平行世界へと"旅立ち"ます。それはたとえばLASSの過去2作品の映像も織り交ぜて、999の世界で千神奈々子を救うシーンを走馬灯のようなムービーとして描くのも良いでしょう。ついに999の平行世界を達成した"プレイヤー"は、けれどアイテムが既に力を失ってしまったために、元の世界へと戻ってきても主人公に"復帰"することができなくなってしまう。アイテムを媒介した"プレイヤー"との繋がりなくして存在を保ちえない黒田孝弘は、千神奈々子がいるこの世界で実体を持つことができず、大気を漂流する。
黒田孝弘のことをほとんど忘れてしまっている千神奈々子は、拭いきれない漠然とした寂しさを抱いているとき、"プレイヤー"の存在を察知する。「貴方は誰?孝弘くん?」。そこで"プレイヤー"はアイテムの最後の力を使って思念を伝えるのです、(黒田孝弘はこの世界にいる、君が一心に願えば蘇える)と。砕けるアイテム、薄れゆく"プレイヤー"の存在。
そうして千神奈々子はついに黒田孝弘を蘇えらせ、運命の再会を果たしたふたりは、わざとらしくベッドに移動せずそのまま熱烈に身体を重ねる。同じくアイテムが砕けたために存在が薄れゆくですの少女は、999の世界を行き来し何千度となく出会いを繰り返してきた"プレイヤー"を愛するようになり、シャボン玉のようにお空を上りゆくふたりは悲愴的に結ばれ、幸せな表情のまま、弾けるように消える……。
これなら無理ないし辻褄合うし感動的だしですの少女もちゃんと抱けるし感動的だし……どうよ?
いや、どうよ言われてもなあ……?

ところで「お地蔵さん」は物語的にスルーですか

もったいないですね。てか活かせよ。
ちなみにシナリオのお気に入り順位は、千神双葉>響紗南絵>早坂恋水>久遠寺凛>獅堂彩音、といったところでしょうか。紗南絵さんは単品で神。広原翔は存在が美。できることなら、彼の全セリフを掲載し書き下ろし新作ポエムも収録した「ラブポエム集」(仮)を発売して欲しいくらい、愛してます。あの詩のボクシング対決では鳥肌が立ちました、そんなひと夏の思い出。