「自分のことは自分が一番よくわかっている」
病気や怪我などの看病シーンで当人が決まって口にする台詞だけど、「そんな当たり前のこと……」と僕は思っていました。でも実際はどうなんでしょうね。
目下、月森さんは細々と転職活動に就いておりまして、今日市内の工場に面接に行ってきたのです。生産ラインを管理するような業務希望で。でもそこで偉い人たちに揃って言われてしまったのですよ、「君は話した感じ営業向きなのではないかな? むしろ管理スタッフには向いてないと思うよ」と……。
それはよくある遠回しの断り文句でもないようで、「初めから『営業が得意です』という人は信用が置けない」とか「君の人柄なら先方にかわいがってもらえる」とか逆に褒められたり(?)、飛び込みやノルマはないから安心してとか、何人か応募があったけど営業としてなら採用を決めてもいいとまで言われる始末。嬉しいんだかショックなのかよくわからない。
偉い人のひとりがこうも言うのです、「自分の性質についての自らの認識と、他人からの評価は食い違うことが多くて、仕事に関しては後者の方が適切なことが多い」と。「好きだけど向いてない仕事につくのと、好きになれないとしても向いている仕事につくのと、どちらが本人と周りにとって幸せなのか」と。
社会や仕事経験の豊富な方々の言葉だけにきっとある種の正しさが含まれているんだろうし、若造の自己認識と彼らの人を見る目を客観的に比較したら、大差で僕が敗れてしまいそうです。僕としても納得したりタメになったり嬉しく思うところもあるのですが、それじゃあどうして就職活動は"自由"なんだろう。いっそ社会主義みたく人事担当官が本人の適性を科学的に審査し、適切な職業に振り分けてくれるようなシステムならば、きっと本人と周りにとって平均上位の幸せがもたらされることでしょうに。(そういえば最近は仕事の適性を測ってくれるようなサービスがあるし、それは決して「逃げ」でも「責任転嫁先の確保」でもないでしょう)
本当に、自分の性質(向き不向き)は他人の方が冷静に的確に把握できるのだとしたら、そこから悪意の勧誘や反社会的な洗脳の危険性をどうやって排除していけばいいんだろう? 「貴方のことは私がよくわかっている。貴方が幸せになるためには私の言うことに従うべきだ」と言われてしまったら、何を根拠に僕は明確に拒絶できるだろう? まぁ性質と向き不向きをいっしょくたに語るのは間違っているという辺りに"ヒント"がありそうだけど。
自らの"自分"についての認識に基づいて形成される、意思(意志)や希望というものを貫き、叶えようとすることが、本人や周りの人たちに現実的な幸福をもたらさないということが一度でも証明されてしまったとき、それでも本人の意思(意志)や希望は尊重されるべきかという議論よりも、気になるのは、そこに至っても他方面において「それはそれ、これはこれ」と"区切って"対応することができるんだろうか。日常生活に密着した、ささやかな意思(意志)や他愛ない希望を正常に維持することができるんだろうか。人ってそうも自分の心を器用に"整頓"できるものなんだろうか、ということ。
「自分のことは自分が一番よくわからない」
一人称視点のギャルゲーで主人公がこの言葉を吐くとき、「それを言っちゃあおしまいよ」とフーテンの寅さんぽくつっこんでしまうけれど、そういった実際的な意味合いにおいて否定できない事実。もちろんそれは僕らの(行動を除外した)内面内での意味に過ぎなくて、言葉でしか行動を現せないゆえに言葉が行動を包含する世界の主人公が(その同じ言葉で)言ってはいけないことであるのに変わりはないわけで。
行動するということ、意味を抱き言葉を発するということ。それらを通して自分を間接的に理解するしかない似非一人称的世界の住人としては、意味を創りつつ言葉に与しつつけれども距離をとってまず行動していくしかないんでしょう。貴方と私と世界との関係性の中で蓋然的に自分を理解していくというまどろっこしい過程。自分探しというのとはまた違った風味のその旅程に、自分が(も)いるのだということに今更気づかされた僕は。
どうするんだろう、どうなっちゃうんだろう、どうしたいんだろう……。参ったな、ギャルゲーほどの安易なオチすら見つからないや……。僕が営業だって? 我ながら笑えるなあおい。いや面接でも実際笑ったけどw(引きつって)。別の仕事を探すしかないのかなあ、読み返してみるとただ営業の成り手を欲しがってるだけに聞こえるし(話してみた感じはそうでもなかったんだけど)。うあああああ、悩めるなあああ、面倒だなあああ、うおおおお(無意味に吼えてみる)。
全く、大学のとき真面目に就職活動をしなかったツケが回ってきやがったか。ときメモほめぱげで人生狂わせただなんて、恥かしくて言えないやい……。