空色の風琴

空色の風琴~Remix~(初回限定版)

空色の風琴~Remix~(初回限定版)

amazon表記はPS2版だけど、僕のプレイしたのはPC18禁(記念)版でした。

「貴女は酷な作品だ。プレイヤーを試して、相手の愛情を謀ろうとする」

「貴女は酷な人だ。人を試して、相手の愛情を測ろうとする。無意識に人を傷つける言葉を発して、相手が耐えられるかどうかを試している。貴女は…ひどく子供だ。人を愛さない。愛し方を知らないのなら、せめて人を試すのは止めたらいい」

劇中でとある人物が颯沙にこう語りかけます。しかし僕にはこの言葉が、作品自体に語りかけているもののように思えて仕方がありませんでした。颯沙=「風色の風琴」だとしたら、この作品はまさしく、プレイヤーを萎えさせる手段をろうして、相手が耐えられるかどうかを試みている。ひどく子供だ。プレイヤーを愛さない。愛し方を知らないとしかいいようがないあのどさくさ紛れのエンディングと、ヒロインたちの奪うモン奪っておいてさっさと排除しあくまで1本道(颯沙)にこだわるストーリー、「プレイヤーを虐げるのは止めたらいい」と叫ばずにはおれません。

「求めるより先に…与えてみたらどうでしょう? 確実なものを相手に求めるより、ささやかでも自分が持つものを相手に与えることです。貴女は人に与えない。でも与えられる人です。相手が笑ってくれるのを哀しく待つよりも、先に笑いかければいい。…そう言うことです」

颯沙はそうして幸せになれました。けれども作品はそうしなかった、だから僕らプレイヤーは幸せになれなかった……。

表現手法の障害が、プレイヤーを傷つけ、作品から遠ざける

まるで携帯電話のメール内容をそのままテキスト化したような装飾記号のオンパレードと、会話文末の括弧に心理描写をお調子よく潜り込ませる省略至上主義の闊歩する中、どの面下げてシリアスシーンに実感(説得力)を持たせることができるのかということ。言葉で表現することで成り立っている物語にあって、言葉で表現することを放棄したその著述姿勢が僕にはどうしても承服できませんでした。というか不愉快。ふざけないでくださいよ、こっちは真面目にプレイしているんだから、と。
キャラクターグラフィックの近く5センチ四方の枠内で表示される、この作品に特徴的なデフォルメ表情は、ギャグシーンやノリのいい場面ではもちろん効果的だけれど、シリアスシーンでも構わず使うことで雰囲気が台無しになってしまったこと。もう少し時と場合をわきまえてほしかったものです。
地の文と会話文が混濁し、地の文にキャラクター名が冠してあることがよくあり、「おいおい情景描写や心理描写を恥かしげもなく語り出してるよこのポエマー野郎が」と、気味の悪い思いをしてしまったこと。視点の移動が何の前触れや表示もなく頻繁になされ、その違和感、特にセックスシーンで視点が主人公とヒロインの間をひょいひょい移動してしまうことの"不都合さ"は、致命的というより既に命を失っていると見るべきでしょう……。
それら表現手法におけるいくつもの困難さは、膨大な章に分節され揺れ動きつつもただ颯沙ひとりに収斂していく物語と、主人公が、颯沙以外全てのヒロインとの出会い・恋愛・関係と別離を順序良く貪欲に取り込み、のんびりと、だらだらと進展していくそれそのものを、ただでさえまどろっこしいほど精密なファンタジー設定と一丸になって、取り返しがつかないほど悪化させていくのです。ここまでくるともう、主人公のべらぼうな好色っぷりと、人間離れした精神的タフさに乾杯するしかありません。

言葉を壊してやまない本来の愛を恍惚に手繰るメナム

僕は思うんですよ、この「空色の風琴」という作品は、恋愛を描くよりも、まずファンタジーを描きたかったのではないかと。そのために、恋愛のロマンティックな"うわずみ"が欲しかっただけなのではないかと。ショパンのピアノ協奏曲第一番第一楽章のピアノの旋律を聴くたび、そう思ってしまうのです。この曲にオーケストラは必要なく、ピアノさえあればいいというところに、僕はこの作品の真相が如実に表れているような気がします。
事実、何人もの女の子と逐次関係していくことになる主人公だというのに、彼に修羅場らしい修羅場は訪れません。そこにあるのは、潔癖で閉鎖的な関係と、刹那的で優雅な感傷と、精神の華々しい高揚。尊ばれるのは、夜空を彩る可憐な星星をめぐる淡いファンタジーであって、でも決して手は届かない、手で掴んだ気になってもいつか手を降ろさなければならず、その手には何もない。そのことをくれぐれも勘違いしてはいけないんだということを、僕は改めて指摘しておかなければなりません。
物語が言葉ではなく、空想によって構成されているのだとしたら、それを言葉によって批判することになんの意味があるでしょう。現実世界での経験に即した主人公の、適切に歪んだ見識(正当な言葉)は、その"ツンデレ"な立ち居振る舞いが本来の破壊力をまったく奪い去り、どこまでも言葉によらない、空想によるドラマ。愛という夢。恋するメルヘンがそこには充満しているのです。

「その人は…馬鹿なんだよ。何にも解ってない。いつも心の中が苦くて、泥が舞い上がってる」
「そんなヤツを『特別』にしておかなくていい。メナムにはいつかきっと心の綺麗な王子様が現れる」
「でも……王子様よりも…お迎えの海亀さんを…好きになったらどうするの? わたし…ずっと金色の髪の王子様がいいと思ってた。でも…今は黒い髪が好き。触りたい……黒い髪に…触りたいよう。手も顔も触りたいよう…っく…っく」

夢の中のメナムが夢の中で手繰る愛は、だからこそ恐ろしいくらい感動的で、

「ハァハァ…ど、どうしよう…嬉しい……。う…嬉しいのが…いっぱいで…壊れちゃうゥ…!」

身の毛のよだつくらい魅惑的です。言葉によらない物語だからこそ、言葉を壊してやまない本来の愛みたいなものを、ファンタジーにかこつけて無垢の姿で描いてしまうことができた、僕はそれこそが「空色の風琴」という作品の唯一くらいの美点であり、奇跡なんじゃないかと思ったりするのです。作品スタイルに従えば、それこそが音色であり、風という"言葉ではないもの(夢)"なんでしょう。

矛盾と秩序 並列世界と単一世界 救いと残酷

「空色の風琴」という作品では、選択肢がただCG回収のための"フェイント"でしかなく、分岐することなく、バッドエンドすらなく、たった1つのストーリーが展開していきます。ファンタジーの味わいを棚に上げて元も子もない言い方をしてしまえば、主人公と颯沙は異世界に迷い込み、最終的に異世界から脱出する、ふたりは実は最初から相思相愛で、それぞれ独特の"ツンデレ"をしていただけという、大仰ではた迷惑な予定調和劇でしかなく。単一世界で繰り広げられる秩序ある彼と彼女のためのストーリーは、彼女以外の多くのヒロインを切り捨てることで整然と綴られていくものです。
もちろん、主人公に出会い交流することで彼女たちは何物にも代え難い何かを得、主人公も彼女たちの純粋な思いに触れることで、近い未来をしっかりと切り拓いていく"兆し"を得ます。それはとても清々しく、微笑ましいものです。とはいえ、彼女たちに対する最終的な責任を果たすことができず(何しろ異世界を出ていってしまうわけですから)、中途半端に優しくしただけで持続可能な幸福をもたらすことのできなかったということ、彼女たちは別の新たな幸せや希望を叶えたというような慰めすら与えられない素っ気のないエンディング、その(ゲーム的)事実はプレイヤーに忸怩たる苦味を残すことになります。
ヒロインを救うことで、プレイヤーは救われる。時系列に齟齬を生じせしめる並列世界において、全てのヒロインを各個に幸せにしていくという当然に矛盾した恋愛ゲーム手法は、全てのヒロインを等しく永続的に幸せにすることでしか幸せになることができないというプレイヤーの性質を鑑みれば、やむをえない仕様だと思われます。主人公と近しくなる全ての彼女たちの幸せを作品に強請するプレイヤーのありようは、そのままファンタジーに通じます。プレイヤーという概念がファンタジーなのです。

「お前がガキで…世の中に、綺麗なものだけを求めたがっている間に…瞳に映るものを、無意識に選択していられる『少女』の時間に…俺は、逃げられない現実の中にいたんだ」

「空色の風琴」という『少女』は、ディスプレイという瞳に映る綺麗で甘美な幻想(グラフィック)を無意識に選択する「時間」。異世界に迷い込むことで主人公は、逃れられないはずの現実から逃れていて、それはプレイヤーの手元にしかなかった。だからこそ、自らと深く関わった全ての女の子たちを、並列に、均等に、高次元に幸せにすることでプレイヤーにもたらされる至高の恍惚は、ギャルゲー常套の醍醐味は敢然と否定されなければならなかったのだとしたら、それはあまりに残酷です。
僕の大好きな絵描きさんである植田亮さんによるキャラクターデザイン、美麗で豊富なイベントグラフィック、クラシック曲をベースにパイプオルガンを始めとする生楽器・こだわりの演奏が重厚で清冽な音楽、可憐でファンタジックなBGM、可愛らしくも誠実な情感に溢れたハイクオリティ・ボリュームのボーカル曲群。個人的にも、きっと一般的にもプレイヤーによって与えられ、愛されずにはいられないその『少女』は、しかしプレイヤーに肝心を与えなかった、十分に愛さなかった。プレイヤーの中途半端な片思い。言葉にならない悲しい音色が風に乗って聞こえてきませんかねえ?
『少女』よ、「空色の風琴」よ、僕に与えて欲しい、笑いかけて欲しい。何もかもが手遅れながら、都合の良過ぎる考えであることは自覚しつつも、そう切望せずにはいられないのです。