うたわれるもの 散りゆく者への子守唄

うたわれるもの 散りゆく者への子守唄(初回限定版)

うたわれるもの 散りゆく者への子守唄(初回限定版)

なるほどなるほど。この原作あってこそのアニメ版だったのだなとつくづく、そういうゲームでした。プレイ中に「(アニメの)あのシーンはこういう事情があったのか」と何度も納得させられ、力ちゃんや柚姉、生まれたてなどキャストの演技に「まるでうたわれるものらじおを地でやってるようだ」と何度もニンマリさせられ。「うたわれるもの」という作品が、アニメとゲーム、そしてラジオについてひとりのユーザーを"重複受容体"としてあることを想定してメディア展開していったものである以上、アニメ単体に文句を垂れるよりも、まずそれら全部を楽しむべきだったのですね。うんうん。
さて。ゲーム「うたわれるもの 散りゆく者への子守唄」ですが。物語は最初から最後まで1本道・1通りしかなく(要するに1回クリアしたら終わり)、移動場所をプレイヤーが選択するパートでは任意にイベントを発生させることができるものの、その選択自体に意味はなく(どういう順番で選ぼうとクリアすれば全部のイベントを見られる(見せられる?))、また選択肢のたぐいも一切ないので物語が分岐するということもなく、戦闘パートはまだしも物語上は、何も考えずただ決定ボタンを押して頁を繰って読み進めていさえすれば自動的にクリアできる仕様です。
とはいえ、果たしてそれでADVゲームといえるのでしょうかね? 自由行動といいながらどれを選ぼうとストーリーやエンディングに影響しない、しかも選択肢はゲーム中一切登場しないというのでは、ADVパートを"自分が"進めている(操作している)ということの意味がまるでないじゃないですか。そんな意味のないイベントを、物語が急場に差し掛かっているときにのんきにこなして、遊んでいられないよと思える時がいくつかありましたね。物語の本筋とイベントのカラーが時折あまりに乖離していたりするので、ちょっと拍子抜けしてしまうというか。それはそれで情緒とかキャラクターの人間味に幅を持たせるという意味で有効ではあるんでしょうが。
要するに、プレイヤーだって人間だもの。好きなヒロインがいればあまり好きではないヒロインもいるわけで。絶対発生させたいイベントもあれば、どうでもいいイベントもあるわけで。イベントの取捨選択、つまり"選り好み"ができない、どうでもよいことをどうでもよくできないというのは、プレイヤーにとっては意外と辛く、つまらなくなりがちで、テンションを下げてしまう恐れがあるのではないのかなあ。
そのように冗長になりがちな性質に加えて、物語自体も結構長く、主人公であるハクオロにも声優(小山力也)の演技が、しかも内面(思考)まで声に出して喋ってくれちゃうので、そこまで聴きながらプレイしているととんでもない時間がかかってしまいます。大河ドラマといっていい壮大な物語なのだからせめて、章とか話数に分けて構成して欲しかったと切実に思いました。大きな戦争が終わっても一息つく暇なくもう次のくだりに入っていて、また意味のない自由行動をさせられたりするのには、さすがにうんざりさせられました。
たとえば「Clover Heart’s」というエロゲーも章仕立てで、章が進むに連れて幕間に流れる音楽(「Fragment Of Heart's Suite」)がスケール(楽器数)を増していくんですよね。あれは実に素敵な仕様でした。お話自体はあまり好きにれなかったけれど音楽はとっても好き。「サクラ大戦」や「ギャラクシーエンジェル」もサブタイトルという形でお話の継ぎ目をきちんと取ってあったし、最近プレイした「アルトネリコ」も物語がPhaseごとに分かれていて、Phase移行時に流れるオルゴール曲が印象に残っています。この「うたわれるもの 散りゆく者への子守唄」もそういう形で、物語に適切な括りをつけて欲しかったです。
ADVゲームであるというのなら、やはりイベント選択・選択肢選択などによって多少分岐して欲しかったというのもありますね。例えば本筋の物語とは別個の、ヒロインごとのイベントをチェーン(連鎖)式に構成して、チェーンが最後まで繋がったヒロインについては、ある地点(期間)に特別なシナリオが挿入されるというような。物語の性質上エンディングは変えようがないというのは分かっていますから、せめてエピローグが変化するというだけでも個人的には嬉しいのですがね。全てのヒロインとの(情事を含めた)シナリオを同時並行的にかつ中途半端にこなしていくくらいなら、何回かの繰り返しプレイ前提で各ヒロインのシナリオを、単一に、誠実に、満足いくまで描き切って欲しかったなあと思うのは、贅沢なことでしょうかね。それは1本道シナリオの宿命だといえばそれまでですが。
初回プレイ(エルルゥ[本筋]ルート)をクリアすることで各ヒロインシナリオが開放され、初回であまり幸せになれなかったヒロインについて、救済(補完)的に特別なイベントが発生するようになるというのならぜひとも再プレイしますが、現状のようにただアイテムを全種類集めるためだけに、大して面白くもないシミュレーションパートだけ再プレイというのは、ちょっとやる気起きなくありませんか? 少なくとも僕は嫌です。
このゲームをよりゲームとして求めるならば、このようなアドベンチャーパートの改造と、あるいは国取りゲームとしての「信長の野望」的パートを導入してみるのもひとつの手ですよね。プレイヤーの関与できない、ハクオロ(物語側)が司っているトゥスクル国の政治やら軍事をプレイヤーも操作できたらきっと楽しいのに。ユズハの薬を調達するために税金を上げなければならなくなったり、カルラの武器を製造するのに鉄を買い集めなければならなかったり、ガチャタラを買わされたがために国が傾いたり…。戦闘パートでゲットできるアイテム類や装備品も、商人との取引で行ったっていいしね。物語上の必要に応じて国政を変化させるというのは我ながらワクワクする発想です。というより、日本地図が出てきて、トゥスクルと敵国の領国が色分けされて表示されると、どうしてもね…。
あと、細かい点ですが気になったのは、戦闘パートで視点が固定されていて自由に移動できないのは辛かったです。左右360度回転とか、上下の俯瞰、拡大縮小などを変えられたりできればもっとスムーズに戦闘パートをプレイできたと思うんですよね。まぁ、そこまでするほど戦闘パートにこだわりはないのかもしれませんけど。それと、さすがに指摘しておかなければならないのは、時間の概念があまりにいい加減だということでしょう。エルルゥがいつまでも純情なのはまぁいいとしても、アルルゥがいつまでも幼女のままというのはいくらなんでもおかしいでしょう(嬉しいんだけどね!)。
ましてやPS2版新キャラとして「カムチャタール」というヒロインが出てきて、彼女は<ネタバレ>ケシナコウルペ国の皇女で、幼い頃にクロウが世話役だったという。その彼女が大きくなってクロウに再会して、「え、あの姫様が!?」とクロウが驚いてしまうくらい月日が経っているのですよ(実際は、ケシナコウルペ国滅亡前にインカラ皇(しいてはクロウ)の元から離れていたというような記述があるんですけどね)。
かくも女の子の成長は早く、季節はいくつも巡り、幾多の戦争に巻き込まれ、にも関わらずアルルゥはいったいなんなんだということになってしまいます。だから、ユズハにしろアルルゥにしろ、時間の経過や成長を感じさせるようなイベントの配置があってしかるべきだったのではないかなと思うわけです。
ユズハは"女"として<ネタバレ>ハクオロに抱かれることになるのですから、コトに至る前に"女"としての成長を感じさせるイベントが欲しかったし、アルルゥにしてみたところで、気が付かないうちに女の子らしくなっていてハクオロをどぎまぎさせるとか、エルルゥを含めて三角関係っぽい雰囲気を演出してみたりと。幼いままにしておきたい気持ちもすごく分かるけど、それはそれでやりようはあるんじゃないかな思うところであります。
世界観・設定上当然に抱かせる多くの不思議・謎の多くをそのまま残し、キャラクター個人の来歴や人間関係上のいきさつをほとんど端折り、アドベンチャーシミュレーションRPG、ノベルといういくつかのゲームジャンルを適当に食い散らかし、「ただ泣ければいいんだろ」とでもいうかのような「うたわれるもの 散りゆく者への子守唄」というゲーム作品のありようは、既にアニメとラジオを楽しんでいる"重複受容体"としてのユーザーであればこそ、諸手を挙げて受け入れられる性質のものでしょう。
それはつまるところ、ゲームプレイヤーであるというより、ただのうたわれファンでしかなくて、ゲーム作品・クリエイティビティとしての半端さ、ぶっちゃけ"甘え"を、メディア戦略とか、萌えが意地汚く鮮やかに吸収しているような、そういう非ゲーム的な態度が10万本もてはやされている時代なんだよなあ…。ゲーム「作品」というのももう、ハンバーグの付け合せの甘いニンジンを好きだから食べるか嫌いだから残すか、それと同じ文法で簡略に語られるべきモノなのかもしれませんねえ。少なくともギャルゲーは昔からそうだったような気もしますけどね。