車輪の国、悠久の少年少女

特にプレイすべきは法月編のみ。選択肢もなくもはやゲームとは言えないけれど、前作「車輪の国、向日葵の少女」をプレイした人であれば、あえてプレイする価値はあると思います。
前作の終盤、主人公森田賢一の破天荒な行動が常軌を逸していて、むしろ人間味を感じられないとしたら、本作の阿久津将臣のありさまはひどく人間くさいものと感じられるでしょう。それが事実として悲劇であるとしても、その悲劇は、人間が人間であるためには受容しなければならないやさしさなのではないかと、僕は思います。
人間くさいということの内容や是非を、人間自身が論じることは無意味で詮ないことであるとしても、僕はどうしても考えてしまうんです。人間であるがゆえに屈服せざるを得ないいくつもの物事があるからこそ、人間には進歩する余地があり、感情を燃えたぎらせ、前を向いて生きていくことができるのだと。

それまで明晰な言葉を尽くした観念的な物語であったのを、不可解な物理的障害に置き換えられ、それを主人公とヒロインたちの少年ジャンプ的なパワーがくつがえし、乗り越えていく。すると何の根拠も示されず途端に"やさしく"なってしまう現実のもと、お子様向けギャルゲーもびっくりの夢想的なハッピーエンドを与えられたとき、果たしてプレイヤーは拍子抜けせずに満たされることができるでしょうか。

これ(↑)は僕が前作の感想で書いたことなんですが。本作の森田賢一&ヒロインズのエロエロ後日談を読むにつけても、やはり当時感じた"拍子抜け"を拭い去ることはできなかった。森田賢一が乗り越えてしまった先には、きっと何もなかったんだと思うんですね。いちゃいちゃと濡れ場とお子様向けエピローグをむりやり捻り出すくらいしか、やりようがなかったのです。まるでゴールのポールを飛び越えてしまったマリオのように、森田賢一が飛び越えてしまった人間の弱さというポール(尺がつねに伸び縮み)の先には、人間として開拓していくべき内的未知も、克服すべき生涯命題も、何もかももはや存在していなかった。もしくはその動機を消失してしまった。奇跡と呼ぶにはあまりにも無常すぎます。
リセットボタンを押すように社会や国家自体を壊すということくらいしか、もはや森田賢一が取りうる意味のある選択肢はなく、それすら虚しい、よくよく滑稽な事業と認識されてしまうでしょう。それをいまさら躊躇って地元で高校生風情にブラブラしている以上、せっかくの後日談とはいえただ道端に座って煙草をふかしているような"空白する嗜好"に過ぎません。「森田賢一、おまえは結局何がしたかったのか」と、今ひとたび僕は尋ねずにはおれない。アホとバカの良い意味と悪い意味を各々極限まで突き詰めてしまった彼は、もう僕が思っている平凡な意味での人間ではなく、高尚な哲学者が定義づける『人間』からも外れた存在なのかもしれません。
それに引き換え、阿久津将臣は挫折します。まるで前作の森田賢一と比較させるかのように、露骨にそっくりの物語と、デジャヴュを覚えるほど愚かなヒロイン。小賢しいミスリードと、強引な発想の転換による感動が展開されていって、しかし最後の最後で彼は、挫折する。誠実に、正当に。そこまで辿り着いておいて……という情け容赦のないタイミングで、彼は現実においてやさしく在るという、人間であるということを選んだということでもあります。そんな彼を樋口一郎はののしる。しかし僕は樋口一郎の言動をこそ不愉快な思いにさせられたものです。
神になりそこないの中途半端野郎に人間をののしる資格などあるだろうか、と。神、それは人間としての死。だからこそ樋口一郎を死に追いやり、その代価として法月は、森田賢一を"神"候補生として手塩にかけ育て上げる。そして生ける神として誕生させるための"儀式"が、まさに前作そのものだったのではないかと今では考えるようになりました。まるで鬼か悪魔かのように描かれていた前作の法月は、その実まさしく人間以外の何者でもなかった。情熱と根性で目の前の障害を乗り越えようとしていた森田賢一は、乗り越えてしまった時点で、従前まであふれていた人間味をいっさい喪失してしまった。まるで人間という抜け殻を脱いで超として羽ばたいてしまったように、4次元以上を認識することのできない僕ら人間には、彼を"見る"ことすらできないというのに。

「ただ、納得していけばいいのだ。――どうにもならないことは、どうにもならないのだと」

本作の阿久津将臣と、前作の森田賢一(と本作の"成れの果て")を皮相的に比較し、酷薄的に相殺して、僕らに浮かび上がって見えている部分が、きっと、人間が人間であろうとするための宿命的でやさしい"くびき"なんだろうと、思うのです。人間らしくない人間と、人間ではない人間。弱い人間であることを認めたからこそ、壮絶なまでに強くあろうとし、がむしゃらなまでに生きようとしている法月の姿は、"らしい"とかではない、良くも悪くも人間という姿そのもの。僕はまるで想定外の共感、彼の"なさりよう"についての理解をもって、「車輪の国〜」という作品に満たされることができたと、今は実感しています。うん、よかったよかった。

「すいません、わたし、ダメです……ダメな人間です……」

人間として弱い部分はきっと誰もが抱えていて、それとは別の文脈に「ゆずれないもの」があって、それへの執着が、「弱さ」という意味をどう"履き違えるか"。弱くなくなるわけでも、ましてや強くなるわけでもない、ただ意味を意図的に"取り違える"。錯誤していくしたたかさと、それを人間同士が同感してゆく過程。それが「車輪の国〜」という作品の真骨頂であって、要は自分自身を都合よく騙していく、勇気をもって謀っていく自分内戦。人間の敵は所詮人間であるように、自分の敵は所詮自分。そんな幾多の戦いを、モザイクなしの過酷な実像を、フィクションであることを逆手にとって悪趣味なまでに突き詰めた、そういう作品であったということです。果たして、僕が好きになりそうな内容じゃありませんか。ねえ。