社会についての一考察、主観のみで。

今回は前回当り前な世界でジタバタ - 徒然のエクリチュール以上の大変なことが起こります。笑

昨日のゼミの後、帰り道で後輩が言いました
「発言に直感が少ない気がする」
それは俺の「議論を壊す気がするから、直感で話すのは抑える」
って話題を受けてのことでした

直感を受けとめる、その受け止め方が変わったんだね
それはもちろん良い悪いではないんですけどね

敢えて直感的に
敢えてペダンティック
それが自分を貫くテーマだと思います

さて
最近、中沢新一さん、茂木健一郎さんの本にはまっています
文化人類学者と脳科学

お二人のフィールドは違うのですが面白いことに似たようなことを仰っています

中沢新一さんは著者「カイエ・ソバージュⅠ〜Ⅴ」のシリーズの前書きにおいて

「(第一次の形而上学革命として)宗教は科学(野生の思考と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。
その宗教を否定して、今日の科学は地上のヘゲモニー(支配権)を獲得した。
そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造を持つものになるか、およその見通しを持つことができる。」

と述べ、

茂木健一郎さんは梅田望夫さんとの共著書「フューチャリスト宣言」の各所でこういったことを述べていました。

自分の目指す仕事はアインシュタイン的な仕事ではなく、ダーウィン的な仕事である、と。

これはつまり
今の時代は科学が博物学のような領域から進歩して専門的な科学になってきた。
しかし、もう今の科学でできることにある程度限界がある
博物学的になっていくことが重要ではないか。
ということである。

お二人の分野はかなり違うのだが
A→B→A’
という時代変化があると言っている
しかしAとA’は似て非なるものだ(A≠A’)。
つまり、現在の否定ではない。

激しく共感。笑
僕もこの考え方に沿って行動しているようです。(「無意識」的に。)

さて、前回はクオリア、つまり茂木健一郎さんの話題を述べたので

今回は中沢新一さんの話題をば

中沢新一さんは「カイエ・ソバージュⅣ」の中で
<高神>と<来訪神>という話をしています。
<高神>は<その場をその場ならしめる精霊>
<来訪神>は<分離したあの世とこの世を繋ぎ、豊かさをもたらす精霊>
ということです。
難しく考えるのはよしましょう。

いつもは学年も住居も違うゼミ員が教室に集まると1つとして活動します
ゼミという場における「目標」や「共通意識」が<高神>です
活動を続けるゼミは毎回行き詰まります。笑
その時です
「わからーーーん、うーーー!がーーーーー!!」となります。
そして、彼、彼女は手を挙げこう言います。
「今の話、わからないんだけど」
この、ゼミという場での共通意識を壊し、突如やってくるもの、それが<来訪神>です
この精霊の登場後は、ゼミ全体が一歩前進します。
煮詰まっているゼミ=この世、と客観的な立場=あの世
この2つを繋いでいるのです。
昨日は先輩が途中から議論に参加してくれました。
先輩も<来訪神>です。しかも、今までの話題に触れていない分、大きな豊かさをくれましたね。

共通認識とそれを壊すようで豊かさをもたらす行動についてですが、これはゼミ以外の場へも適用できそうですね。

さてもう一つ、中沢新一さんの著作で「三位一体モデル」というものがあります。
三位一体モデルというのはキリスト教の考え方ですが
<父>と<子>と<精霊>です。
父は<父なる神>、子は<子なるキリスト>、精霊は<増殖するもの>
これも簡単に考えましょう

父=父なる神=教義、となります。それは一般社会では規則や共通認識、共通意思となります。
子=子なるキリスト=預言者=伝道師、となり、これは<父>を広めようとする人間
精霊=増殖するもの、とは<子>から教えられ<父>をもつようになるもの、と言えるでしょう。

教科内容を父、教師を子、生徒を精霊に置き換えるとしっくりいきます。

ゼミでの発言内容を父
発言した自分が子
発言を聞いてくれた人が精霊
はて?なんであんな発言したんだろう…場の空気…か?
場の空気…ゼミに良かれ、と思って発言したんだから…あぁ…
つまり、場の空気は<高神>なのですね。

たぶん、ここらへんで俺も含めて(←!?)話がわからなくなってきたのではないでしょうか。
ちょっとここら辺で、わかる言葉に置き換えながら整理を試みます

人間は場の空気、共通認識に従って行動しています。(高神=父である場の空気・共通認識と子である人間)
人間は自らが自由に思考して行動していると思っていますが
実は自分が居る場に規定された行動なのです。
<一人だけ違う行動はとりづらい>となったがためにそして、場の空気、共通認識は固定されていきます。
他人が他人を影響し、強化していきます。(増殖するものとしての精霊)

はい、ちょっとだけ見えてきました。

敢えて言い古された表現で結論を言います

「自由意志は本当の意味での自由意志にはなれない」

さて、前回の最後に
「社会というものを考える、社会の問題点を考える、とは、個人を考える。
うーん、古典的ですね。
社会の抱える問題点とは、個人の抱える問題点とイコールではないか。」
と述べましたが
これに今回はもう一つヒントが加わりました。

答えはまた今週も引き延ばしですね。笑

社会を考える、次回に続きます。今日はこれまで。