日本語練習虫

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明治十年代後半の楷書活字と明朝活字の攻防

弘道軒と築地活版の間の確執といふエピソードば伴ふからだらう、『東京日日新聞』が明朝体活字による本文組をやめ、明治十四年八月一日付の第二八九二号から二十三年二月十一日付の第五四八八号まで弘道軒清朝体活字を用ひ、後に築地活版の明朝体に戻るといふ事例は有名である。
一方、なるべく多くの明治期新聞広告を見たいといふ目的で己が眺めた『中外物価新報』縮刷版によると、『中外物価新報』もまた、明朝体(築地系)から清朝体(楷書)への変更と更に明朝体(印刷局系)への再変更といふ変遷を辿ってゐる。明朝への復帰は明治二十二年一月二十日付の第二〇四四号からと、東京日日よりも一足早い。なほ、その直後に『中外商業新報』へと改題し、小見出しに隷書を使ふなどの工夫も加へはじめてゐる。
郵便報知新聞はさういふ本文活字の変遷を経験してゐないものと思ふが、全日程を見たわけではないので、判らない。
新聞がさういふ不思議なことをやっている頃、近代デジタルライブラリー資料によると、文学博士の逍遥坪内雄蔵は、自著のほとんどを楷書活字(清朝体)で出してゐた。
我々が今まで思ってゐた以上に、明朝体のデフォルト和文活字書体としての地位は脅かされてゐたかもしれねぇと、ほんのちょっと、想像してみてゐる。もっとも、脅威の度合いは1%が2%に上がった程度かもしれないが。
できれば明治期の新聞で復刻版(縮刷版)が出されてゐるものは全て見てみたい、全部の日付とは言はねぇが、明治十年代半ばから二十年代末までの期間について、毎月一日付と十五日付の分とか、さういう押さえ方はしておきたい、南東北大学図書館が所蔵してゐる分だけでもいいや、――と思ってゐる己だ。