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2017-11-03 図録『澁澤龍彦ドラコニアの地平』私註草稿 このエントリーを含むブックマーク

ある文学作品が作者に胚胎し、活字印刷テキストとして我々の眼前に公刊されるまでの間に、どのような経過を辿るのか。

ごく大雑把に一般化して言うと、まず全体的な構想やカギとなる言葉などを記した「アイディアメモ」や「創作ノート」の類が書かれ、次に推敲を重ねながら原稿が書かれ、最終的に(編集者を経て)印刷所へ入稿された原稿を基に活字が組まれて印刷される、そのようなプロセスになるだろう。これは所謂文学作品に限らず、大枠では、活字印刷テキストとして公刊される文章一般に共通する内容と言ってよいかもしれない。

2017年10月7日から12月17日の会期で世田谷文学館で開催されている「澁澤龍彦ドラコニアの地平」展には、澁澤ゆかりのオブジェの他、アナログ的に作品を綴っていた澁澤が残した前記各段階に対応する資料が展示・解説されている。特に力が入っていた『高丘親王航海記』の場合、創作メモ→草稿→(浄書した)入稿原稿→雑誌掲載→(掲載誌を台紙に貼って更に推敲を重ねた)手入れ原稿→単行本といったテキスト生成過程が、よく解る仕掛けになっている。

同展の図録は、2017年10月13日初版第1刷発行の書籍として一般書店で販売もされている。澁澤のテキストをより深く理解しようとする上で、実に貴重な資料が示されていると思う。

澁澤龍? ドラコニアの地平

澁澤龍? ドラコニアの地平


筆者は10月15日に「澁澤龍彦ドラコニアの地平」展を観覧し、会場の展示キャプションに見られる「草稿」と「原稿」の区別に疑問を感じて次のようなツイートをした。

澁澤龍彦展で『「イスパハンの昼と夜」草稿』とされていた原稿だけれど、「潮 月号 印」のスタンプが押されていることや、9ptゴシックという活字指定がアカで入っていることなどから、これは草稿ではなく(印刷)原稿で間違いないだろう。@setabun 関係者さん、ぜひご確認下さい。

https://twitter.com/uakira2/status/919406700142006272

当日購求しなかった図録を10月30日に落掌したので、図録182頁に掲載されている『「イスパハンの昼と夜」草稿』をここに示しておく(図録のキャプションも「草稿」になっている)。

f:id:uakira:20171103115158j:image

古書業界(古物商業界)と近代文学研究業界では「草稿」や「原稿」といった言葉の使い方が異なっている場合があり注意が必要だというが、ここでは近代文学研究の流儀に沿って考える。

先にツイートした通り、『「イスパハンの昼と夜」草稿』の原稿用紙には、「割付」と呼ばれる、活字の種類と大きさ(「9G」すなわち9ポイントのゴシック体)、行取りの指示(「4L」すなわち4行取り)など、編集者が朱書きした組版・印刷の指示があり、また「潮 月号 印」という媒体スタンプが押されている。

こうした痕跡が存在することから、モノとしてこれは「草稿」ではなく「入稿原稿」であると考えて間違いないだろう(ツイート時点では、印刷所に回される段階の、その時点での決定稿である原稿として「(印刷)原稿」と呼んでいたが、これは「入稿原稿」と呼ぶべきであると考えを改めた)。


澁澤龍彦ドラコニアの地平」展で、近代文学研究の流儀でいう「草稿」と同じ意味合いで「草稿」とキャプションがつけられているものもある。例えば図録077頁に掲載されている『「南方学の秘密」草稿』が、それだ。

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コクヨの400字詰原稿用紙に、まず鉛筆で最初のテキストが書かれ、次にブルーブラックインクの万年筆で推敲される。そしておそらく文章の骨格・血肉が整う最終に近い段階で、赤インクで段落区切りが定められる。

津原泰水氏が、シス書店で開かれていた「澁澤龍彦没後30年」展に出品されていた(四谷シモンに言及する)原稿用紙の低解像度画像と共に「原稿用紙は、このようにして使う。文章が仕上がっていくプロセスを残しておく物なのだ」とツイートなさっていたが、推敲の跡を辿れるようにしてある紙面は、まず第一に、作者自身が作品を捕まえるために書かれるものと言えるだろう。

先述のように入稿原稿であることを示す朱書きが入っている原稿用紙においては、基本的にこうした推敲の跡は見られず、草稿から書き起こされた浄書原稿となっている。草稿に改行位置を示す記号が朱書きされているのは、第三者が入稿原稿の浄書を行うことがあり得る前提で明示していたものかもしれない。



図録でも展示キャプションでも、近代文学研究の流儀でいう「入稿原稿」と同じ意味合いで「原稿」とキャプションがつけられている例が、図録136頁に掲載されている『「火山に死す」原稿』である。

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タイトル「火山に死す」には「24ポイント明朝体」を意味する「24°M」と朱書きがあり、署名には「18ポイント明朝体」を意味する「18°M」と、「澁澤龍彦」の四文字を七文字分のスペースに割り付ける「七バイ(七倍)」の指示、更に「正字使用」の注記が付されている。

こうした「割付」に基づいて組みあがった初出誌面は次のようになっている。

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連載であることから連載タイトル「唐草物語」が縦長の宋朝体で組まれ、更に本文と同じ明朝活字で「その三」と回数が示されているが、これらは入稿原稿上には注記されていないように見える。また、挿絵の有無や、タイトル廻りの行取り、天地のアキなど、やはりこの『文藝』昭和54年4月18巻3号148頁を組み上げるには、追加の情報が必要になるのだが、そのあたりは定型フォーマットとして注記不要と考えられたのだろうか。

これが、例えば〈マンディアルグ『大理石』「あとがき」原稿〉のように単行本の入稿原稿になると、割付の朱書きは、図録113頁に掲載されている次の図のように、細かな点まで記される。

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ひょっとすると、図録でも展示でも「原稿」ではなく「草稿」とされているのは、掲載誌である『潮』1972年1月号での初出タイトルが「占星術古都 イスパハン」でありこの原稿用紙に記された「イスパハンの昼と夜」とは異なっているから決定稿ではない、という理由であるのかもしれない。

澁澤の手を離れて編集部から更に印刷所へと回されていると考えられるこの入稿原稿上のタイトル表記と掲載誌上の表記が異なっている理由は、一般的な作業の流れで考えれば、ゲラ(校正刷り)の段階で澁澤(または編集者)の手が入って書き換えられたからだと推定される。

決定稿とは呼べないかもしれないが、近代文学研究の流儀でいう「入稿原稿」と呼んで差し支えない。


さて、以上のような観点で――つまり近代文学研究の流儀に沿って――「澁澤龍彦ドラコニアの地平」展の図録を眺めていくと、「草稿」か「原稿」かの記載が資料内容と合致しないケースが見受けられる。

例えば、図録110頁に掲載の、『「発禁よ、こんにちは――サドと私」草稿』。掲載誌を示す「新潮 月号」のスタンプが押され「7」の朱書きがあり(このテキストは『新潮』1960年7月号が初出)、またタイトルに「18P」(18ポイント活字)、サブタイトルに「9P」(9ポイント活字)、著者名に「3」(三号活字)を用いるよう割付指示が書かれていることが、入稿原稿であることを示している。

世田谷文学館内の展示キャプションでは「原稿」となっている『夢の宇宙誌』の資料が図録100-102頁で「草稿」とされていたりするのは、展示設営に大きく先立つと考えられる図録の製作段階では「草稿」および「原稿」の区別をどのようにつけるのかという点に関する視点が、図録編集時点では共通の認識として確立していなかったことを示すのだろう。

近代文学研究の観点でテキストの生成過程を跡付ける意味でも「草稿」か「原稿」かの区別は重要であるけれども、印刷技術史あるいは印刷美術史の資料という側面から考えた場合、残された原稿用紙資料が、組版者(印刷者)に向けた「割付」指示の朱書きが付された「原稿」(入稿原稿)であるのか、それとも割付指示が書かれておらず、代わりに作者による推敲の跡が数多く残されている「草稿」であるのかの区別は、更に決定的に重要である。

ここから、筆者の私見により、図録掲載資料について「草稿」か「原稿」かの区別を付け直してみたい。


掲載頁図録キャプション筆者私註
050-051「高丘親王航海記」草稿
052-053「高丘親王航海記」決定稿のための加筆・修正(決定稿のための加筆・修正を行った)単行本入稿原稿
058「シュルレアリスムと屍体解剖」草稿
065「観念の動物園『唐版犬狼都市』のために」草稿
066「土方巽について」草稿
068「悪魔のエロトロギア――西欧美術史の背景」原稿
074プリニウス「スキヤポデス プリニウス『博物誌』第7巻第2章」翻訳草稿
074プリニウス「アリマスポイ人 プリニウス『博物誌』第7巻第2章」翻訳草稿
075「迷宮と日時計」草稿
077「南方学の秘密」草稿
080「宝石伝承」のための草稿
087「鳥のいろいろ」草稿
089「時計草――ミニアチュール的想像力」草稿
091「石の中の生きもののこと」草稿
100「夢の宇宙誌」草稿入稿原稿
109サド「ソドム百二十日」第1部(抄)草稿
110「発禁よ、こんにちは――サドと私」草稿入稿原稿
112アレ「腹の皮のよじれる話」(抄)草稿
113「大理石」原稿
114「幻想動物学 ア・バオ・ア・ク」草稿
116「幾何学とエロス」草稿
116「宇宙卵について」草稿
119「十八世紀 毒の御三家――スウィフト サド ゴヤ」草稿
120「城と牢獄」草稿
122「クラナッハの裸体」草稿
122「みずからの純潔性に関印された若い処女 サルバドール・ダリ」草稿
122「ルドンの黒」草稿
123「桃鳩図について」草稿
123「マニエリスト抱一――空前の植物画家」草稿
123「河鍋暁斎――百鬼夜行図」草稿
134「ランプの廻転」草稿
136「火山に死す」原稿
138「夢ちがえ」創作メモ
138「夢ちがえ」草稿
139「きらら姫」創作メモ
139「きらら姫」草稿
140「髑髏盃」創作メモ
140「髑髏盃」草稿
142「うつろ舟」創作メモ
142「うつろ舟」草稿
143ダイダロス」創作メモ
143ダイダロス」草稿
148『ねむり姫』装幀のための自筆の指定書き
170「星の王さま、タルホ」草稿
170石川淳坂口安吾 あるいは道化の宿命について」草稿
181ヘラクレスの睾丸」草稿
182「イスパハンの昼と夜」草稿入稿原稿
183「ペトラとフローラ 南イタリア紀行」草稿
184日本列島南から北へ」草稿
185「ラコスト訪問記」草稿
186「さざえ堂――二重螺旋のモニュメント」草稿
187「塔と庭のある町――大内文化をたずねて」草稿
188「パドヴァの石屋」草稿
190「東勝寺橋」草稿
190「鳥の声 虫の声 初音がつづる鎌倉の四季」草稿
190「明日谷」草稿
190鎌倉今昔」草稿
194「絵本について」草稿
195「美術館」草稿
199「儒良」草稿
200「高丘親王航海記」創作メモ
201-202「儒良」創作メモ
203-205「蘭房」創作メモ
205-206「獏園」創作メモ
207-208「蜜人」創作メモ
209-211「鏡湖」創作メモ
213-214「真珠」創作メモ
215-218「頻伽」創作メモ
220「高丘親王航海記」草稿
221最終章「頻伽」草稿
227「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」草稿
230「撲滅の賦」草稿


自筆資料がオブジェの一種として扱われ図録中にグラフィック素材として配置されている点も残念ではあるのだけれども、それにしてもこれほど濃密に澁澤テキストの生成過程を垣間見ることができる資料は、他に類を見ない。それだけに、(私見では)上記4点の不徹底とは言え、近代文学研究の視点を維持できなかったものかと残念でならない。

参考:

関連:

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2017-06-04 島連太郎の三光社での活動時期と三秀舎の創業時期 このエントリーを含むブックマーク

石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字 ―外来語定着の一側面―」というテキストを知ったことから、『漱石新聞小説復刻全集』と山下浩『本文の生態学』を読み直していた。実は明治末から大正・昭和戦前期における新聞活字の変遷史を社史等の記述ではなく実態に即して辿り直してみようと思い立ったことと、その状況の図として東京朝日新聞を選んだことは、半ば、山下氏の大きな仕事に対する印刷史研究者からの20年遅れでのささやかな貢献という気持ちがあった。

漱石が掲載を始めた明治40年頃から10年間ほどの間」に、東京朝日新聞の本文活字サイズは三種類が使われていて、明治40年の『虞美人草』は「五号活字」1行19字詰、明治42年の『それから』は五号活字ではなく「9.5ポイント活字」1行18字詰、大正3年の『先生の遺書』から『明暗』までは「9ポイント活字」1行17字詰である――社史の記述が誤っているため仕方がない面もあるが、原紙を見れば1文字減ったというだけでは説明がつかない行長の変化に気づく――という点は、先日公開した「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で図示した通り。

今回『漱石新聞小説復刻全集』を再読したのを機会に、同書全体にとっては枝葉の些細な事柄だが、我々のような印刷史研究の方面から訂正をしておかねばならない点について、メモを残しておくことにする。


漱石新聞小説復刻全集』11巻「小品」巻末に記された山下浩氏による解題の「(五)東京版・大阪版―主に印刷過程について」306頁:

一般の入手は困難なPR誌(非売)の、『アステ』第8号(リョービイマジクス、1990年12月25日)があり、新聞の印刷を特集し、その中には島連太郎の著書から「揺籃期の新聞印刷」が採録されており、輪転機採用の時期や経緯、ルビ付き活字の制作時期、採用時期等について多くの情報を与えてくれる(注16)。

この注16は311頁に次の通り掲載:

島連太郎(1880-1941)著『明治大正日本印刷術史』。なお、『本文の生態学』の二章で『坊ちやん』の文選工に言及したが、そのうちの一人「島」は、大をなす前の若き島連太郎であったかもしれない。

『アステ』第8号「特集新聞」中に、「資料発掘 揺籃期の新聞印刷/『明治大正日本印刷術史』より」として採録された「揺籃期の新聞印刷」については、欄外冒頭で、次のように説明されている。

本資料は『明治大正日本印刷術史』の「新聞印刷法の変遷」の章の一部を採録したものである。

島連太郎(1880-1941、福井県出身)は明治34年(1901)東京・神田に活版業三秀舎を創立し、昭和5年(1930)、創立三十周年を記念して『世界印刷通史』中山四郎・石川幹之助共著とこの『明治大正日本印刷術史』郡山幸男・馬渡力共編を刊行した。

若干判りにくい説明になっているかもしれないが、『世界印刷通史』『明治大正日本印刷術史』とも、発行者は島連太郎(発行所は三秀舎)だが、上記欄外注記の通り『世界印刷通史』は中山四郎と石川幹之助の共著で、『明治大正日本印刷術史』は郡山幸男と馬渡力の共編になる書籍である。島の著作ではない。

この『アステ』再録「揺籃期の新聞印刷」で本件に関し主眼となる「新聞活字の変遷」の項を見ると、冒頭の「始め本木氏が活字の大小基準を定むるや欧字スモールパイカを以て最も多く使用さるゝ型と思惟し」が「使用されるゝ型と」という具合に翻刻されているなど、参考資料として掲げるには不安が残る。できれば原書を参照されたい。

ところで、山下氏は『アステ』欄外注を良くご覧になっただろうか。確かに島連太郎は秀英舎で印刷業に従事するようになっているのだが、「明治34東京・神田に活版業三秀舎を創立し」ということは、明治39年に発行された『ホトトギス』に掲載された漱石『坊ちやん』の組版について秀英舎の文選工として従事することは、まず無かったと思ってよい。

『アステ』欄外注で明治34年とされる三秀舎の創立年だが、現在の三秀舎ウェブサイトにある「三秀舎116年の歩み」は明治34年ではなく明治33年創業説を採っている。

三秀舎ホームページが島連太郎の半生記としてリンクを掲げる「KANDA アーカイブ「百年企業のれん三代記 」第21回」は、島からの聞き書きとして、「明治19年、17歳のとき」「秀英舎に見習いとして就職し、営業職として活躍」し、「明治32年3人の仲間と神田美土代に、合資会社三光社活版印刷所を設立」するが「明治33年に三光社を発展的解消し、三秀舎を立ち上げ」たと記している。


現存する三光社・三秀舎の印刷物を追いかけると、例えば明治30年8月に秀英舎第一工場が初版を刷った島崎藤村『若菜集』は同年10月に「再版」が発行されているのだが、前職の縁で紙型を預かって「再版」と称する増刷の印刷を請け負ったものか、神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎がこの「再版」の印刷者として奥付に表示されている

同じ明治30年の9月に初版が印刷・発行された大和田建樹『散文韻文 雪月花』も印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎で、翌明治31年9月に初版印刷発行の森田思軒『無名氏』の印刷所・印刷者も神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎である。

このように、少なくとも明治30年には島連太郎が関係する三光社が活動を開始していたと見て良い。

また国文研の近代書誌・近代画像データベースで見かける最も古い神田美土代町二丁目一番地・三光社の印刷物は、明治28年11月に「三版」発行となった納所弁次郎編『日本軍歌』になるようで、この時の印刷者は金時金平名義となっているのだが、金時金平が「3人の仲間」の一人であるかどうかは未詳。

国会図書館デジタルコレクションで博文館発行の印刷物を見ると、明治33年12月印刷発行の石橋思案編『筆と紙』の印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎だが、翌明治34年1月印刷発行の江見水蔭『軍事小説 突貫』では神田美土代町二丁目一番地の三光社・「白土幸力」、更に同年34年2月印刷発行の大町桂月『一蓑一笠』や同年4月印刷発行の江見水蔭『短編小説 月と梅』では神田美土代町二丁目一番地の「三光堂」・白土幸力となっている。

同じく文武堂のものでは、明治33年1月印刷・3月発行の中央新聞社編『名士の嗜好』の印刷所・印刷者は神田美土代町二丁目一番地の三光社・島連太郎だが、翌明治34年9月印刷・10月発行の笹川臨風『遊侠伝』では神田美土代町二丁目一番地の「三秀舎」・島連太郎となっている。

三秀舎設立の登記上の日程は判らないが、このあたりの奥付記載の状況を勘案すると、「三光社を発展的解消し、三秀舎を立ち上げ」たのは明治34年初め頃のことかと思われる。


新聞社や出版社あるいは印刷会社等の社史あるいは印刷史の記述について、どの程度信用できるものと判断していいのか、悩ましいことばかりである。

2017-05-21 石井「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す このエントリーを含むブックマーク

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印刷博物館所蔵の活字見本帳を活用した「国語×活字問題」――活字で刷られるところの日本語表記に関する問題――の研究成果として、石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字 ―外来語定着の一側面―」という論考が書かれていたことを先日知った。

http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/60851/1/06+%E7%9F%B3%E4%BA%95.pdf

仮名付活字というのは、新聞・雑誌が本文を総ルビとしていた時期に、組版の効率化を図るために親文字とルビを一体化して作った活字である。そのため「使用頻度の高い」「固定化している」表記の手がかりとなるはずで、「活字見本帳の(カタカナ)ルビ付き活字から、当時求められていた外来語の様相を知ることができる」と着目されたものだ。

国語文字・表記史の観点から、「仮名付」活字見本帳をこのように見ることができるのだ、と教えられた。


従来、活字見本帳類の書誌として、例えば板倉雅宣『活版印刷発達史』(asin:4099175153)巻末では、次のような記載が試みられている(ごく一部表記を改めた)。

桑山弥三郎氏蔵『新聞用九ポイント半(小型五号)総數見本 全』(東京築地活版製造所)大正5年6月改正、46頁、223×150mm、大正11年8月印刷
漢字7,860字、ゴチ、印物、1/2約物、1/4約物、5ポかな
桑山弥三郎氏蔵『七ポイント假名附書体見本 全』(東京築地活版製造所)昭和5年5月改正、50頁、235×161mm
(内容注記無し)
桑山弥三郎氏蔵『新聞幷雑誌用七ポイント假名附書体見本 全』(東京築地活版製造所)昭和10年8月改正、50頁、229×157mm
漢字10,350字、二倍合字

今後我々が「仮名付」活字見本帳の書誌を採る場合、石井氏の視点を導入し、(康煕部首順で整理された)「ひらがなルビ付」活字と、(いろは順で整理された)「カタカナルビ付」活字の双方があるのか無いのかといった注釈も記載するようにしたい。

なお、石井氏が取り上げた昭和4年版の秀英舎『九ポイント假名附活字見本帳』(印刷博物館所蔵)にカタカナのルビが含まれ、同じく昭和4年版の秀英舎『七ポイント假名附活字見本帳』にカタカナのルビが含まれていないことの理由となる筈の補足的な情報なのだけれども。

  • 昭和4年というのは、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り、新聞各紙が本文活字を7.5ポイントから7ポイントに切り替えていく、そうした端境期にあたる。
  • 実は、各紙が7.75ポイントや7.5ポイント活字を本文に使用していた大正10年頃、新聞で使用する漢字の種類を「常用」漢字に制限しようという運動があり、大正12年8月6日付で新聞社・通信社の「常用漢字尊重」共同宣言が出されている。
  • この運動を主導した中心二社のうち東京日日新聞では大正11年3月16日から漢字制限が開始、同じく報知新聞では同年4月1日から例えば「独逸」を「ドイツ」と表記するようになっている(見出しを除く本文表記)。この頃の各紙が当て字をカタカナに開いていく様子は、神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」などで確認することができ、概ね大正期のうちにカナ開き化が完了する。
  • 月間総合誌は大正一桁まで主要記事を五号、サブ記事を六号活字で組んでいたが、例えば『中央公論』の場合、大正8年から記事全体を9ポイント活字に切り替えている。
  • 9ポと8ポの併用になっていく時期は十分に確認できていないが、8ポイント一辺倒になっていくのは敗戦後の用紙難の時代が始まり。

こうした関連諸分野での論考の前提として用いられるべき基礎資料を我々近代日本語活字史研究者が十分に提供できていない、この状況を二重三重にお詫びしたい。


なお、秀英舎の「仮名付」で現存する見本帳としては、本家本元である大日本印刷が、推定明治45年刊『明朝五號假名附活字摘要録』(カタカナなし)、大正15年刊『七ポイント七五假名附活字見本帳』(カタカナあり)昭和4年刊『七ポイント假名附活字見本帳』(カタカナなし)を所蔵している模様。

桑山氏も築地活版だけでなく秀英舎のものを多数お持ちであろうと思うが、辿れる伝手を持たないため未確認。

大正3年に刊行された秀英舎の総合見本帳には「九ポイント半假名附」も掲げられており、もしも総数見本が現存していて「カタカナルビ付」が含まれていたなら、大正3年から昭和4年の間に至る「カタカナルビ付」キャラクタセットの変遷の有無が確認できる。


ところで、石井氏の論考では「ルビ付活字」に関する「先行研究」として矢作勝美「活字のはなし15 ルビ付活字」(『ちくま』127号)から次の箇所が引かれている。

とくに、明治の末から大正にかけて新聞の情報量は増量の一途をたどり、小さな活字をもってこれに対処したことから、大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した。くわえて、新聞製作のスピードアップは至上命令である。

ルビ付活字は、煩雑な組版作業をできるだけ避けるため、漢字の右傍らにルビを付けた母型を作り、それによって鋳造したもの。大正二年、築地活版所の六号ルビ付がその最初で、その後七・五ポイント、更に秀英舎などの九ポイント、八ポイントがあり、広く新聞、雑誌に利用された。これは新聞の過当競争が生んだ活字の知恵といえなくもない。しかし、書籍を対象にした四号、五号活字にはこうした現象は見られなかった。

最初期のルビ付活字が明治30年頃の大阪朝日(の五号活字)であろうというのは、石井氏も指摘する通り。これは自社で活字を作っていた大阪朝日のような新聞社だからこそ可能だったもので、例えば青山進行堂『富多無可思』(明42)に「仮名付活字」が掲載されていない状況から、活字ベンダーがルビ付活字の製造販売を開始するのは明治末頃と考えて良いように思われる。

「明治の末から大正にかけて新聞の情報量は増量の一途をたどり、小さな活字をもってこれに対処した」という状況の実態は、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り。

矢作「活字のはなし15 ルビ付活字」が「大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した」と記しているのは、矢作『明朝活字』149頁あるいは矢作『明朝活字の美しさ』236頁に「さらにまた大正八年五月になると、字母宗母型製作所から新聞用六号代用として六・五ポ、また、字母長母型製造所においてはすでに大正七年八月、八ポおよび同ルビつき、一二ポ、二四ポの完成をみていたが、大正八年五月にいたり、六ポ、七ポ七分五厘および同ルビつき、一一ポ二分五厘、一五・五ポ、二三ポ二分五厘、三一ポといった活字を発売している。いずれも新聞むけのものである」と詳述している事柄の反映である。

これはおそらく『印刷世界』に掲載された活字発売広告――『日本印刷界』には出稿されていない――を参照した記述であろう。「ちくま」の記述では大正8年の段階で「6.5ポイントの本文活字」が出現しているかのように読めてしまうが、実態はそうではない。この段階では、商況欄(株価)のような特殊な場面で用いる小型活字である(昭和15年の段階で本文活字が6.3ポイント相当になるのだが、20年以上後の話)。

日本語表記史に関心をお持ちの方にとって、上述した大正末の漢字制限(とそれに伴うカナ開き)はおそらく常識に属する事柄と思うが、そうであろうからこそ敢て、「大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した」のは商況欄を主目的とした小型活字であって本文活字ではない、総ルビで記されていた本文活字は昭和3年以前の段階では7.0ポイントより大きい、と繰り返し記しておく。

*1:本項のタイトルは《石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す》としたかったところ、はてなダイアリー仕様の字数制限により《石井「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す》としたもの也。

2017-05-20 新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版 このエントリーを含むブックマーク

時折ツイートしてみたり、発表会の資料として配布してみたりしている、『東京朝日新聞』本文活字サイズの変遷を示す図がある。

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このような図まで作っているのは現時点では東京朝日だけなのだけれども、大手紙や地方紙を可能な限り多数集めた「新聞活字の事典」というような参考資料を作りたいと思って、色々な資料を参照し、ノートを取り続けている。

作業過程で気づいたのだけれど、大手紙の社史にせよ、地方紙の社史にせよ、紙面の変遷について、判型、段数、行数、活字サイズを漏れなくまた間違いなく記した資料は、絶無とは言わないものの非常に少ない。

いつか書き直されるべき近代日本語活字史ハンドブックのために取り続けているこのノートは、そう遠くない将来に企画されるであろう大手紙の150年史における「組版書誌」データの適正化にも直接役立つはずなのだけれども、それ以上に、複数紙のデータがハンドブックにまとまることで、新聞活字の歴史をちゃんと知るための近隣諸学からの参照先として役立ってほしいという思いが強い。

新聞活字の歴史について知りたい、そのように考えた時、きちんと当てに出来る資料は全く無いと言ってよい。例えば日本新聞製作技術懇話会の会報『CONPT』38巻5号(2014年、通巻227号)に掲載されている立花敏明「新聞製作技術の軌跡(第2回)」のように類例より優れたまとめ記事ですら、「都式活字」の実寸について、「9.75ポ」とする誤伝をそのまま引用しているために正確性に欠けるところがある。

そんなわけで、特に活字サイズに関しては原紙で確認していない段階の推定を含み、また現時点までに調べている内容のごく一部に留めるが、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」として、各紙の本文が五号活字からポイント活字に切り替わっていく明治末を起点とし、戦時統制による統一活字の使用が始まる昭和15年までの期間を概観する表を作成しておくことにした。

大阪毎日東京日日大阪朝日東京朝日中外商業西日本新聞
1908明4111/3から10ポ 12/20から9.5ポ
1909明42 2/11から9.5ポ5/1から9.5ポ 2/1から都式
1910明43
1911明441/1から9.5ポ
1912明45
1913大2
1914大34/1から9ポ4/15から9ポ3/10から9ポ4/10から9ポ 12/1から9ポ
1915大4 11/9から9ポか
1916大5
1917大69/11から8.5ポ9/1から8.5ポ8/1から8/.5ポ9/1から8.5ポ12/14から8.5ポ
1918大79/1から8ポ9/1から8ポ7/1から8ポ7/1から8ポ7/1から8ポか4/4から8.5ポ
1919大81/1から7.75ポ3/1から7.75ポ1/1から7.75ポか3/1から7.75ポか5/19から7.75ポ2/1から8ポ
1920大9 2/11から7.75ポ
1921大10
1922大114/4から7.5ポ4/4から7.5ポか
1923大12 1/1から7.5ポか1/1から7.5ポか10/29から7.5ポ
1924大13
1925大14
1926大15 3/30から7.5ポ
1927昭2
1928昭34/1から7ポ4/1から7ポ4/1から7ポ4/1から7ポ
1929昭4 7/1から7ポ
1930昭5 9/1から7ポ
1931昭6
1932昭7
1933昭8
1934昭9
1935昭10
1936昭11
1937昭128/1から6.75ポ8/1から6.75ポ8/1から6.75ポ8/1から6.75ポ 9/1から6.65ポ?
1938昭13
1939昭14
  • 表中、「か」としている個所は、原紙による確認を経ていないため他の条件からの推定による数値で、「?」は社史の記述が不自然と思われるが原紙の確認ができないため疑問を示すにとどめたもの。
  • 大阪毎日・東京日日については、『大阪毎日新聞社史』『毎日新聞七十年』『毎日新聞百年史』『「毎日」の3世紀〜新聞が見つめた激流130年』の記述を、東京日日のマイクロフィルムによって修訂している途中。例えば、歴史的に大阪毎日が本流であるという意識が強いためか東京日日が明治42年に採用した活字を10ポとしているが9.5ポのようだ、といった塩梅。
  • 大阪朝日・東京朝日については、『朝日新聞社史』『村山龍平伝』の記述を、縮刷版によって修訂している途中。例えば、「資料編」が「段数・字数・建てページの変遷」という観点しか持っていないため無視されている大正11年12月31日付社告が「正月一日紙上より本紙一段の行数左の如く改正致候/一段百四十行(但し五号活字十五字詰)」と記しているように、「12段15字詰」に違いはなくとも大正12年1月1日付から活字サイズが一回り小さくなっている(のでなければ紙のサイズが大きくなっている)、といった塩梅。なお、冒頭の図で「推定7ポ875」としている時期について、表では「7.75ポか」とした。
  • 中外商業新報については、『日本経済新聞社80年史』『日本経済新聞社120年史』の記述を他の状況や縮刷版から修訂している途中。五号活字からいきなり9ポイントに切り替わるのでなく、10ポまたは9.5ポの時期があったのではないかと疑っているが、未確認。なお、120年史は明治41年6月2日から商況欄が「6ポ19字8段」とする80年史の誤りを正せていないが、これは「6号」活字の誤り。商況欄の活字が6ポイント台になるのは、大正6年末「中外型新活字」採用からであろう。
  • 西日本新聞については、『西日本新聞社史』『西日本新聞百年史』『西日本新聞百三十年史』の記述をメモ。なお、「都式活字」は、東京築地活版製造所の野村宗十郎が(おそらく自らをポイント活字実用化の創始者と権威づけたいために)「9.75ポイント相当の、ポイント体系ではない活字」と呼んだものが都式活字の寸法として土方正巳『都新聞史』等に至るまで伝承され続けている――立花敏明「新聞製作技術の軌跡(第2回)」も同書を参照している――が、実寸を測定した限りでは9.5アメリカンポイント相当の大きさである。

立花敏明立花敏明 2017/10/19 20:11 「新聞製作技術の軌跡(第2回)」の著者の立花です。
都式活字のサイズですが、『都新聞史』を参照したため、9.75ポイントとしました。
しかし、都新聞は9.75ポイントの活字を作ろうとしたのではなく、できた活字を後で測ってみたら9.75ポイントだったということのようです。
したがって、正しくは?都式活字は9.75ポイント相当?ですね。
『印刷雑誌 1919年5月号』の「都式活字で有名な松藤善勝の偉業」には?文字は丁度九ポイント七分五厘に相当?とあります。

立花敏明立花敏明 2017/10/21 22:57 すいません。あわてていて意味を取り違えました。
都式活字は9.75ポイント(相当)でなく、9.5ポイント相当というのが内田さんの趣旨ですね。上のコメントはピントはずれでした。
したがって、『印刷雑誌 1919年5月号』に都式活字は9.75ポイント相当という記述がある、という指摘にとどめます。

uakirauakira 2017/10/29 13:25 立花様、『印刷雑誌 1919年5月号』所収「都式活字で有名な松藤善勝の偉業」の情報、ありがとうございます。確か国会図書館に所蔵がなく、印刷図書館でないと閲覧できない巻ですね。
実は当方も『都新聞』原紙そのものに触れることはまだできていないのですが、松藤善勝堂が大正2年に印刷した『小波身上噺』https://twitter.com/uakira2/status/679993374351347712 や『都新聞』付録『都の華』(明治35年2月25日付第52号以降)https://twitter.com/uakira2/status/782131891310702592 の実測により、9.5ポイントと判断しています。

2017-05-19 印刷雑誌(含印刷世界・第二次〃)大阪印刷界(含日本印刷界)リスト

近代日本語活字史というのを産業史的な視点から眺めていく際、『印刷雑誌』(後継誌である『印刷世界』や第二次『印刷雑誌』を含む)や『大阪印刷界』(後継誌である『日本印刷界』を含む)といった業界誌に掲載された活字広告が役立つ場合がある。

例えば「秀英体」の要石と言うべき最初の「秀英四号」活字は何時ごろ作られたのかというようなことを知りたい時、国会図書館デジタルコレクションで実用例を丹念に追い続けるというような手があり、仮名は明治27年初めに「秀英体」スタイルのものに切り替わったと知れるのだけれども、『印刷雑誌』五巻十一号(明治28年12月)掲載の製文堂「改正四号」広告の記述によって明治28年末に至って「今般四号も悉皆改良完結」したということ、つまり漢字等も含む四号活字セットが新しいスタイルのものに切り替わったことが判る。

そのような調査の基礎資料となる業界紙誌なのだけれど、通しで全部持っているところは無く、例えば戦前の『印刷雑誌』・『印刷世界』・第二次『印刷雑誌』を通覧するには国会図書館と印刷図書館の双方を頼る必要があり、またイレギュラーな巻号表期のため「××年ごろの事柄を調べたい」と考えた時にどういう所蔵期間があてにできるかということの把握が難しかったりする。

そんなわけで、だいぶ以前から、印刷雑誌系と大阪印刷界系の業界誌について、どこにどの号があるのかを一覧できるリストを作りたいと思っていた。

印刷雑誌(含印刷世界・第二次印刷雑誌)所蔵館リスト 印刷雑誌(含印刷世界・第二次印刷雑誌)所蔵館リストを含むブックマーク

刊行年印刷雑誌 ※印刷世界※印刷世界※第二次※第二次
および後継誌NDLデジコレ印刷図書館明治新聞雑誌文庫宮城県図書館東北大関西大
1891明241巻2号〜11号1巻2号〜11号
1892明251巻12号〜2巻11号1巻12号〜2巻11号
1893明262巻12号〜3巻11号2巻12号〜3巻11号
1894明273巻12号〜4巻11号3巻12号〜4巻11号
1895明284巻12号〜5巻11号4巻12号〜5巻11号
1896明295巻12号〜6巻11号5巻12号〜6巻11号
1897明306巻12号〜7巻11号6巻12号〜7巻11号
1898明317巻12号〜8巻11号7巻12号〜8巻11号
1899明328巻12号〜9巻11号8巻12号〜9巻11号
1900明339巻12号〜10巻11号9巻12号〜10巻11号
1901明3410巻12号〜11巻11号10巻12号〜11巻4号、6〜11号
1902明3512巻1号〜12号12巻1号〜12号
1903明3613巻1号〜12号13巻1〜4号、6〜11号
1904明3714巻1号〜12号14巻1号〜12号
1905明3815巻1号〜12号15巻1号〜12号
1906明3916巻1号〜12号16巻1号〜12号
1907明4017巻〜
1908明4118巻〜
1909明4219巻〜19巻6号〜11号
1910明43/1巻 1巻1〜2号、4〜5号
1911明442巻/3巻 2巻1、3〜4号
1912明454巻/5巻
1913大26巻/7巻
1914大38巻 8巻
1915大49巻
1916大510巻 10巻
1917大611巻
1918大712巻1〜4号/1巻1号〜
1919大82巻
1920大93巻
1921大104巻
1922大115巻 5巻1、6〜10、12号
1923大126巻 6巻1〜11号6巻8〜12号
1924大137巻 7巻1〜12号7巻1〜3、9〜12号
1925大148巻 8巻1〜3、6、9〜11号8巻1〜12号
1926大159巻 9巻1〜2、6〜11号9巻1〜12号
1927昭210巻 10巻1〜11号10巻1〜8、10〜12号
1928昭311巻 11巻1〜10号11巻1〜12号
1929昭412巻1号〜12号12巻1号〜12号 12巻1〜12号
1930昭513巻1号〜12号13巻1号〜12号 13巻1〜12号
1931昭614巻2号〜12号14巻2号〜12号 14巻2〜6、8〜12号
1932昭715巻1号〜12号15巻1号〜12号 15巻1〜12号
1933昭816巻1号〜12号16巻1号〜12号 16巻1〜12号
1934昭917巻1号〜12号17巻1号〜12号 17巻1〜12号
1935昭1018巻1号〜12号18巻1号〜12号 18巻1〜12号
1936昭1119巻1号〜12号19巻1号〜12号 19巻1〜12号
1937昭1220巻1号〜12号20巻1号〜12号 20巻1〜12号
1938昭1321巻1号〜12号21巻1号〜12号 21巻1〜12号
1939昭1422巻1号〜12号22巻1号〜12号 22巻1、3〜7、9〜11号
1940昭1523巻1号〜12号23巻1〜9号 23巻1〜12号
1941昭1624巻1号〜12号24巻1、4〜12号 24巻1〜12号
1942昭1725巻1号〜12号25巻1〜10、12号
1943昭1826巻26巻1〜11号
1944昭1927巻27巻1〜11号
1945昭20

印刷図書館が空欄のままになっているけれど、『印刷世界』は基本的に全て持っていた筈で、第一次『印刷雑誌』の後半部分は持っていた筈。「筈」というのは、ウェブで検索可能になっていないので手元のメモを検証できないため。国会図書館で欠けている11巻54号と13巻5号は印刷図書館でも欠本だったように記憶しているが、どちらか一方または両方所蔵有りかもしれない。

東大明治新聞雑誌文庫、宮城県立図書館、東北大学附属図書館、関西大学附属図書館以外にも、戦前の『印刷雑誌』(含後継誌)を断片的に持っている機関はあるが、まとまった数量を持っているところは無いように思われる。

国会図書館所蔵資料は全号デジタル化が済んでおり、図書館送信資料としてアクセスすることができる。

大阪印刷界(含日本印刷界)所蔵館リスト 大阪印刷界(含日本印刷界)所蔵館リストを含むブックマーク

刊行年大阪印刷界 ※48号から日本印刷界
および後継誌NDLデジコレコロンビア印刷図書館東大総合大阪府立
1909明421〜2号 2号
1910明433〜14号 4〜14号
1911明4415〜26号 15、17〜26号
1912明4527〜38号 27〜29、33〜35、37号
1913大239〜47/48〜50号 39〜40、42〜47号/48〜50号 39〜50号
1914大351〜62号60〜62号51〜62号 59〜62号
1915大463〜74号63〜74号63〜74号 63〜74号
1916大575〜86号75〜86号75〜86号 75〜86号
1917大687〜98号87〜98号87〜98号 87〜98号
1918大799〜110号99〜110号99〜109号 99〜110号
1919大8111〜122号111〜117号112〜117号 111〜118、120〜122号
1920大9123〜134号 123〜131、133号 123〜134号
1921大10135〜146号 135〜146号
1922大11147〜158号 147〜148、150、153〜158号
1923大12159〜170号 159〜162、164〜170号
1924大13171〜182号 171〜177、179〜182号 171〜182号
1925大14183号〜 183〜189、192号
1926大15

印刷図書館が空欄になっているけれど、そもそも所蔵があるのかないのか、実は未確認。

コロンビア大学の所蔵巻号について、ウェブOPACの記載では36号も持っていることになっているようだが、Googleブックス化された際に36号が欠号と判明しているように思われるため、欠号扱いとした。

国会図書館所蔵資料は全号デジタル化が済んでおり、図書館送信資料としてアクセスすることができる。コロンビア大学図書館所蔵の(Googleブックス)デジタル化資料を、何らかの形でNDLデジコレ図書館送信資料化することはできないものだろうか。