洗脳支配の乱立と、正当化事業の嗜癖化

私は、自分の生きる秩序を内側から話題にできることを、《ひきこもりの専門家》の必須要件と考えています*1。 支援には(自助グループも含め)さまざまな立場や団体がありますが、ベタな規範意識が乱立しているだけで、そのうちどれかの支援関係に参入することは、事実上の洗脳支配に屈することになる*2。 だから、なんらかのつながりが目指される時に、そこにどんな前提や関係ロジックが働いているか、常にチェックする必要があるし、私はそのチェックをこそ、臨床活動として、つながりの作法としたい。

「差別はいけない」と形式的に言う人は多いですが、そういう人が水面下では平気で差別発言を連発していることがある。しかもその人がコミュニティに信頼されているのですから、その人だけを批判すれば済むのでもありません。差別的な見下しや役割意識を維持するイデオロギーが集団的に支持されているので、その《意識されざるつながりのパターン》を主題化するのでなければ、いちど差別される側に回った人間は死ぬまで被差別民です。


最悪の問題は、自分を正当化するときのパターンが嗜癖化し、固着していることです。 それは、なにも引きこもる人だけの問題ではない。 人間が関係や意識を営むときには、常にあるパターンを反復しています(ここで私はエスノメソドロジーを参照できると思うのですが)。
ひきこもりの場合、秩序化にともなう主体の構成過程が苦痛パターンの一環なので、単に役割カテゴリーを擁護するだけでは、苦痛機序に取り組んだことになりません*3。 そして、順応主義的な主体の構成プロセスそのものを嗜癖過程として扱った議論に、未だ出会いません。 いわゆる「過程嗜癖」は、知的事業や社会参加のプロセス(要するに正当化の営み)そのものについても言うべきです。



(酒井さんのお返事には出てきませんが、関連するメモとして)

構築主義は、「同じ構成パターンが執拗に反復される」という嗜癖のモチーフで、構成過程の時間軸を導入したほうが、臨床上の意義が大きくなると感じました*4。 「構築されている」ことに気付いただけの満足は、「自分にはわかっている」のナルシシズムで同一性を確保します。
構築主義を標榜する上野千鶴子が、《○○当事者》というスタティックな同一性に固執する矛盾は、《構築されている》ことに気付いたメタ認識だけは、《構築されている》という事情を逃れていると勘違いするからでしょう。 (理論家の考え方自身が、社会問題の一つになっている。メタにいると思っている理論は、それ自体がオブジェクトレベルにある。)
構築主義的理解を反復することは、それ自体が嗜癖的な正当性確保であり得ます。 最高度に知的なことを理解する振る舞い自身が、最底辺の嗜癖固執であるというスキャンダルを、真っ先に認めなければ*5。――ここにも、《メタ/オブジェクト》のモチーフがあります。 メタを担う言説自身が、オブジェクト・レベルの嗜癖を体現している。



当事者論を組み変えるために4につづく】


*1:既存の医学部にもソーシャルワーカーの養成プログラムにも、こういう論点は(少なくともスタンダードとしては)未だありません。

*2:カルトとスピリチュアリティ―現代日本における「救い」と「癒し」のゆくえ (叢書・現代社会のフロンティア)』に、「引きこもりとカルト」(渡邊太)、宗教研究における研究者側の当事者性(土屋博)についての言及があります。

*3:「カテゴリー化された誰かを守る」という硬直した正義は、ディテールを言葉にする取り組みを禁じ、PC言説のナルシシズムに閉じてしまいます。 反復される秩序が苦痛の形をしているのに、そのパターンの反復を《正義》と勘違いしてしまう。

*4:すでにあるのでしょうか。 私は2冊ほど眺めて、「これは部分的にしか使えない」と思ったのですが。

*5:論じている自分じしんの側が嗜癖であるという可能性に、誰も気づいていないように見えるのです。 社会的正当性の確保じたいが、嗜癖モードにあるというのに。