「不毛な興奮」を慎重に退け、「事柄(ザッヘ)への情熱的献身」を引き受けるということ


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 政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)−−責任感(Verantwortungsgefuühl)−−判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(ザッヘ)」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司どっている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね「不毛な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。インテリ、とくにロシアのインテリ(もちろん全部ではない!)のある種のタイプに見られた−−ジンメルの言葉がぴったりな−−態度、また現在「革命」という誇らしげな名前で飾り立てられたこの乱痴気騒ぎ(カーニヴアル)の中で、ドイツのインテリの間でも幅をきかせているあの精神態度。そんなものはむなしく消えていく「知的道化師のロマンティシズム」であり、仕事に対するいっさいの責任を欠いた態度である。実際、どんなに純粋に感じられた情熱であっても、単なる情熱だけでは充分ではない。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力−−これは政治家の決定的な心理的資質である−−が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。ドイツのインテリの卵たちの間ではこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神の他の部分でおこなうものではない。であるが、もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為であるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によって培われる。しかし、距離への習熟−−あらゆる意味での−−がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靱な魂の抑制も不可能となる。政治的「人格」の「強靱さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離−−この場合、自分自信に対する距離−−にとって不倶戴天の敵である。
    −−マックス・ヴェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波文庫、1980年。

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なんというか……。
想像していた予測通りなのではあるのですが、懲罰としての投票行為が、さらなる巨悪を招き寄せ、その間隙を突くように第三極という有象無象が跋扈するというのが現状ではないだろうか。

鬱憤をはらす当て馬的な選択こそ、民主主義を根幹から揺るがす暴挙ではないか。

こういう名目的な脊髄反射が続くところをみるにつけ、ワイマール末期や戦前の二大政党制の終焉期を想起してしまう。

その意味では、これも何度も言及しているけれども、数年に一度の「お祭り」騒ぎで「はじまった」「オワッタ」とだけ評して、あとは丸投げにするというスタイルから卒業することが必要なんだろう。

自分が一票を託した政治家や政党が、その掲げるものを履行するのかどうか、そして何らかの暴挙を阻止することができるのかどうか、そのことを注視・注文し続けていくほかあるまい。

現実には、特効薬なんて存在しない。

必要なのは、「不毛な興奮」を慎重に退け、「事柄(ザッヘ)」への情熱的献身(その事柄を司どっている神ないしデーモンへの情熱的献身)を引き受けていくしかない。

何度も紹介しているけれども、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』の末尾の一節を冒頭に掲げておく。

これは政治家にだけ要求される資質ではあるまい。










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