覚え書:「論壇時評:記録する 「狂気」とみなされる怖さ 作家・高橋源一郎」、『朝日新聞』2015年07月30日(木)付。

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論壇時評:記録する 「狂気」とみなされる怖さ 作家・高橋源一郎
2015年07月30日

(写真キャプション)高橋源一郎さん=池永牧子撮影

 大岡昇平が、太平洋戦争の激戦地レイテ島での経験をもとに書き上げた『野火』(〈1〉)は、単に戦争小説の傑作であるだけではなく、およそ「文学」と呼ばれる人間の営みの頂点に属する作品だ。

 主人公の「田村一等兵」は、他の多くの日本兵と共に、食糧も弾薬も尽きた中、米軍や地元民からの攻撃を恐れながらジャングルをさまよう。兵士たちは次々に、砲弾で肉体を粉々にされ、倒れ、まだ生きたまま蛆虫(うじむし)に食われてゆく。そしてその倒れた兵士の肉を、生き延びるために別の兵士が食うのである。このような過酷な経験を描いた「戦争小説」は数多くある。だが、それらの作品と『野火』の最大の違いは、「田村」がまるでカメラと化したかのように、風景や起こった出来事を、異様なほど精密に記録しつづけていることだ。

 狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気でありつづけるために、他の選択の道はなかった。兵士たちは意味なく飢え、死んでゆく。そのほんとうの理由を教えてくれる者はどこにもいない。「田村」は、いつかやって来る、すべてを公平に裁く者に引き渡すために、なにもかも「記録」しようとしたのかもしれない。だが、戦場にあって正気でありつづけること自体が、また別の狂気であることを作者は知っていた。

 1960年生まれの映画監督・塚本晋也が、『野火』を映画化した(〈2〉)。その試写の席で、わたしは文字どおり椅子に釘付けにされ動くことができなかった。それは、画面に映っているものが「過去のできごと」に見えなかったからだ。目の前で肉体が砕け散るとき、観客はその痛みを感じる。兵士が腐肉にかぶりつくときには、その腐臭から顔をそらす。塚本は、30代で映画化を公言して以来、その実現に奔走した。だが、資金はなかなか集まらなかった。

 「そうこうするうちに、戦争の愚かしさは普遍的な当たり前のことだと思っていたのが、自分が愚かしいと思えば思うほど、戦争のことを愚かしいと思う風潮が消えつつあるということが、この作品のつくりづらさをますます加速させているかもしれないと感じるようになっていきました」(〈3〉)

 やがて、塚本は、資金が集まらないなら、ひとりでアニメを描くか、カメラ1台を持ってフィリピンで「自撮り」をすることまで構想するようになる。その塚本の「狂気」は、戦場の狂気に圧倒されないために、「田村」が陥らざるを得なかった「狂気」を思わせる。

 主人公の「田村」は監督の塚本自身が演じた。その演技は、圧倒的だったが、それは塚本と「田村」が同じ「狂気」を共有しているからのように思えた。

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 歴史社会学者・小熊英二が、2011年3・11以降の反原発デモの「記録」映画を作り上げた。タイトルは『首相官邸の前で』(〈4〉)。作品について小熊はこう書いている。

 「私は、この出来事を記録したいと思った。自分は歴史家であり、社会学者だ。いま自分がやるべきことは何かといえば、これを記録し、後世に残すことだと思った」(〈5〉)

 必要なのは「記録」することだった。小熊は、インターネット上に残された膨大な記録映像を収集し、それに、自らがインタビューした、デモに関係ある人びとの映像をつなぎ合わせ、主として首相官邸前で起こった出来事を再現しようとした。中心にいるのは、この社会を揺るがした大きな事件によって「覚醒」してゆく人びとである。この「覚醒」は、クライマックスの「20万人デモ」へ繋(つな)がってゆく。けれども、そういった事実が、マスメディアによってほとんど無視されたのは、その「覚醒」が、社会を不安にしかねない「狂気」の一種に見えたからなのかもしれない。

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 東京都現代美術館で公開中の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展へ、会田誠が妻と息子の3人で出品した作品(〈6〉)が、美術館から撤去要請を受けたとされている。その一つが、「文部科学省に物申す」と題され、天井から吊(つ)るされた布に書かれた「檄文(げきぶん)」だ。

 それは、「会田家の日常会話のうち、『日本の教育への不満』を抜き出したもの」がベースになっているが、たとえば、「かばんが重い」とか「従順人間を作る内申書というクソ制度」とか「大学から哲学を追い出すどころか中学から道徳追いだし哲学教えろ」といった、しごくまともな呟(つぶや)きにすぎない。

 会田は「会田家」を代表してこのように書いている。「『個々人が持っている不平不満は、専門家でない一般庶民でも、子供であっても、誰憚(はばか)ることなく表明できるべきである』というのは、民主主義の『原理原則』『理想』です。簡単に言えば『我慢しなくたっていい』『声を押し殺さなくていい』――その基本的な人生態度を、僕は子供たちにまずは伝えたいと思いました」(〈7〉)

 はっきりとした説明のないまま会田の作品が撤去されようとしているのは、この作品が、ある種の「社会常識」からは危険なものと感じられるからだ。

 この国では「民主主義の原理原則」や「理想」は、あってはならない「狂気」の一つにされつつある。そのことの意味を、「おとなもこどもも考え」ねばならない。会田家の芸術的実践とそれが引き起こした波紋は、その貴重な「記録」となるだろう。

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〈1〉大岡昇平 小説『野火』

〈2〉映画「野火」(監督・塚本晋也、公開中)

〈3〉塚本晋也監修『塚本晋也×野火』(今月25日刊行)

〈4〉映画「首相官邸の前で」(監督・小熊英二、8月5日から東京・渋谷で先行上映)

〈5〉小熊英二「監督の言葉」(http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php別ウインドウで開きます)

〈6〉会田家「檄文」(会田誠と妻・長男の共作、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展)

〈7〉会田誠東京都現代美術館の『子供展』における会田家の作品撤去問題について」(http://m-aida.tumblr.com/別ウインドウで開きます)

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 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。「論壇時評」の4年分、計48本を収録した『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)が発売中。
    −−「論壇時評:記録する 「狂気」とみなされる怖さ 作家・高橋源一郎」、『朝日新聞』2015年07月30日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11888532.html



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