日記:一つの国の暴力に対抗し、それより強力な暴力を備えること


        • -

 一つの国の暴力に対抗し、それより強力な暴力を備えることで、からくも一日一日の平安をかせぐべく、バランスをとるというやりかたは、どんなサーカスの空中曲芸よりも危険なものだ。そんなとき、正義だとか、自由のため、平和のためなどというあやしげな文句は、火の手に風を送るようなものだ。人間は、良識をもっているから、威嚇の限度を越えて、じぶんのからだに油をかけてマッチをするような、おろかな真似はしない、と多寡をくくっている人が多い。それならば、結構、というほかない。人間は、常にそんなに冷静なものだろうか。例え、水のようにしずかであっても、またしずかであればあるほど、この先人類が何万年生きてゆくことの目標を失い、滅亡にしか価値のないことをそろそろ気付きはじめているのではないか、それとも単に錯乱しているのか、存続への断念に情熱をもつにいたったのではないか、と、いろいろろくでもないようなことを考えざるをえないようなうごきかたに、故意に片より出しているような現象に、あちこちでふれ、不安と失意が、会う人の表情の奥からのぞくのをみるようになった。八月六日以来の人間の顔の変わりかただ。
 世界でただ一つの被爆者の日本から、無関心が生まれたとすれば、それは、多くの説明者のことばのような、ひゅうまにずむの欠除というような生やさしいものではないようにおもう。日本人の口にするりべらりずむや、ひゅうまにずむは、現実をはぐらかす煙幕にすぎないのだ。それでなければ、八月六日の原爆記念日の呼びかけや大会など、空疎にさわぎまわったり、政争の道具にしたりして、あそんでいるわけはない。これは絶望の一つのポーズなのだ。被爆者のからだのなかですすんでゆく白血症状のように、地上に原水爆核兵器が眠っている現実が存在する以上、被爆国のこころは、やがて来る被害の想像によって蝕まれるかわりに他者に対する大きな無関心が拡大していっても、しかたがないのだ。このくにだけが、ノアの方舟を約束するコネがなかったことを骨身にこたえて、今猶、次の災害の前夜祭にうつつをぬかしているとしても、そんなに責めるわけにゆかない。
 こういう日本の絶望を知らせることが、あの残忍な「平等」主義の国に対するいやがらせでなくて一つのコンセイユでもあるのだ。あの頑固な民主主義者共は、じぶんの頬をすりむかなければ、痛さがわからないエゴイスト共のよりあいでもあるのだ。八月六日にあたって、僕らは、彼らをもふくめてもう一度、人間というものの性悪さとおろかさを洗ってみよう。
    金子光晴「『八月六日』にあたって思うこと」、金子光晴『自由について 金子光晴老境随想』中公文庫、年83ー84頁。

        • -