ルービンの蓋然的思考(Probabilistic thinking)

「ルービン回顧録」についてのネット上での言及があまり多くない。いい本なのに、渋くて、手堅すぎるからだろうか。

ルービン回顧録

ルービン回顧録

この本の読者層と、ネット上で何かを書く人の層がずれているのかな。
僕の場合、ビル・クリントンという人物に深い興味があり、クリントン政権に関連する本はいずれ読むためにほぼすべて買い込んでおり、この本も「いずれ読む」の棚に入りそうになっていた。しかしパラパラと読み始めたら、このルービンという人物に引き込まれて通読することになった。何が面白かったかといえば、ルービンの人生を、「蓋然的思考」(Probabilistic thinking)という一本の筋が貫いているところだった。
冒頭でこの本ができたいきさつが書かれている。共著者のジャーナリストがルービンのところにやってきて、ルービンがニューヨークタイムズ・マガジンに寄稿した「自らの思考法と人生観」についての記事を読み、この記事を発展させて本を一緒に書かないかと提案してきたというもの。

その記事は、人生において確かなものは何もない。だからあらゆる決定は確率の問題だという、私の基本的な見解を中心に論じたものだった。ワイズバーグと話すうちに、私は自分の意思決定の手法と人生観がどれほど自分の行動に影響を及ぼしているかを他の人々に伝えるというアイデアに引き込まれていった。(p4)

そう、この本は確かに「ルービン回顧録」に違いないのだが、原書タイトルの「In an Uncertain World」

In an Uncertain World: Tough Choices from Wall Street to Washington

In an Uncertain World: Tough Choices from Wall Street to Washington

のほうが本質的なのである。つまり、ルービンの人生観と思考法と意思決定と行動のちょっと美しすぎるほどの一貫性が、彼の仕事の歴史を通じて描き出されている本なのである。
ルービンは1960年代半ばにゴールドマン・サックスに入り、裁定取引の仕事を始めて頭角を現すわけだが、彼は自分の生来の気質とこの仕事がしっくりと親和した話を詳述する。そして、自伝にはつきものの両親、祖父母の生い立ちの記述にいく直前にも、こんなふうに書いている。

裁定取引が、蓋然的にものを見るという私の本能を強めたことは間違いない。しかしこの本能は、私がゴールドマン・サックスに入るずっと前から身についていた。同社で学んだ裁定取引ビジネスは、私の人生観と一致していた。つまり、人生とは絶対とか証明できる確実性などがない世界で、いろいろな確率を秤にかけるプロセスということだ。この人生観は、私の基本的な気質に根づいており、さまざまな師や友人たちから受けた知的影響によって形作られた。あの時点までの私の人生を振り返れば、有能な裁定取引人の精神的プロセスと気質がどのように出来上がったか、たどることができるだろう。(p71)

この本の原著が出版されたのは2003年のこと。「Rubin」と「Probabilistic thinking」でGoogle検索してみたら、出版直後に書かれたBlogが見つかった。UCバークレイのBrad DeLong教授の「Why Was Bob Rubin Such a Good Public Servant?」
http://www.j-bradford-delong.net/movable_type/2003_archives/002828.html
で、「Probabilistic thinking」についてはこんな解説がある。

The factor Rubin himself sees as most important is his habit of "probabilistic thinking": a willingness to always ask questions like "What else might happen?", "What if we're wrong?", "What could happen next?", and to look at the full range of situations that might come to pass--and at their costs and benefits--rather than to assume that things will go as planned or as the fashionable ideology or favorite administration model would have predicted.

ルービンは自らのキャリアを振り返り、蓋然的思考についてこう語る。

ビジネスの世界でも政府にあっても、私は、確実だと証明できることは何もない、という根本的な世界観に従ってキャリアを重ねてきた。このようなものの見方をすれば、当然の結果として、蓋然的な意思決定(Probabilistic decision making)をするようになる。私にとって蓋然的思考とは、ひとつの知的概念であるばかりでなく、私の心の働きのなかに深く根づいた習慣や規律でもある。この知的概念は、1950年代末、懐疑的な姿勢を尊ぶハーバード大学の学究的環境のなかで初めて身につけた・・・(略) (p18)

アメリカの政治や経済政策に興味のない人でも、ルービンという人物を通して、人生観や基本的思考法と、意思決定や行動がどう結びつけられ得るのか、何かを学び、学んだことを実践に移すというのはどういうことなのか、といったことを考えるきっかけを与えてくれる本だと思う。
一般に、この蓋然的思考が骨の髄までしみこんだルービンのような人というのはとても少ないように思う(日本は特に弱いかも)。それは「失敗に対する姿勢」というところに顕著に現れる。ルービンは、自ら裁定取引で大きな失敗をしたあとに、こう総括する。

しかし重要なのは、結果は悪かったにせよ、投資の判断は必ずしも間違っていたわけではないということだ。交渉が決裂したあとで、私たちはいつもこれを吟味しなおし、見逃したかもしれない手がかりを探した。しかし大きく痛い損失であっても、何か判断ミスをしたとはかぎらなかった。保険数理的ビジネスもそうだが、裁定取引の本質は、確率を正しく計算すれば、大部分の取引で、そして取引全体の総額でも儲けが出るということだ。六対一のリスクを冒せば、七度に一度は予見できたリスクが生じて損をする。

つまり蓋然的思考、蓋然的意思決定こそが、「リスクを取る」という組織の行動姿勢に直結するのである。こういう論理性が組織のトップに存在しなければ、ほぼ確実なことにしか手を出せず、トップが口では「リスクを取る」と言っても、組織として「リスクを取る」ことは絶対にできなくなる。
最後に、先ほど紹介したBrad DeLong教授のBlogから、ルービンとこの本について書かれたここを引用してみよう。

Reading Clinton Treasury Secretary Robert Rubin's memoir--In an Uncertain World--we can begin to understand where this striking difference comes from. First, note that the title page of In an Uncertain World states that its authors are "Robert Rubin and Jacob Weisberg." How often do you see that? How often does the person who crafts the prose get his or her name on the cover? And not with a mere "with" but with a full "and." This is one facet of Robert Rubin's strength: he is a classy guy, and a man who believes that credit is to be shared and not hogged for himself.
Indeed, Rubin gives a lot of credit to the team of people who worked for him. And they were indeed world class. But any Assistant to the President, any Secretary of the Treasury, can hire a team composed of the best people for the jobs in the world--if that is what is wanted, and if one is a good enough manager to identify who the best people in the world are.

ルービンほどの大人物の場合、普通は回顧録に「"Robert Rubin and Jacob Weisberg."」というクレジットは入れず、単独著またはWeisbergを協力者程度の小さな扱いにするだろうけれど、そうしないで、ルービンはちゃんと周辺の人々にクレジットを付する。そこにルービンの強みがあり、そういう彼の姿勢が、彼の周囲に世界最高レベルのスタッフを集めたのだと分析している。