学校殺死の系譜

大阪の小学校に刃物少年、教職員3人刺され重傷
小学校乱入:授業中の惨劇に学校騒然 少年は卒業生 大阪
  ――「名前」はまだ無い。


正直言って、もうこの手の事件には驚かなくなっている。
だが、傷ましく、恐ろしく、許すべからざる犯罪であることは確かだ。
確か、なのである――が、


「当然の出来事」だ


そう思う部分が心のどこか――ではなく、私の心の核にある。


断りを入れるならば、これは何も先の「テロリズム」の概念に発しているのではない。


私の胸の内には、ある「名前」が、呪いのように刻まれている。
その名前と呪いとを吐き出す作業を、
私はまだ出来ないでいる。


そして恐らく、この「少年」も、
その身の内にある「呪い」を言語化することができないまま、「心の闇」の一言で、あまたある「歪んだ」事件の一つとして、片付けられてしまうのだろう。
自称ジャーナリストや社会派芸能レポーターによって。

いじめはなかった、だと?

「在学時にいじめにあっていたという事実が確認されていない」?
「つじつまが合わない」?
「セクハラはなかった」という問いが立てられないという現状をこそ、まっとうに受け止めるべきではないのか。

そして、
これをいじめられる側の「自己責任」といった瞬間、テロのサイクルが開くだけ、だ。
特定少数への暴力は、結局、不特定多数への暴力として社会に帰ってくることになるのだ。
自己責任?自己責任?自己責任?
笑わせるな。


もし、その言葉が当たるとすれば、
殺された人間にこそ、ふさわしい。*1

*1:レトリックとしての文脈であり、故人を貶める意図はないことを明記します。