「スクールカースト」という概念の重大な欠陥
本来、「非モテ」については、その「非モテ」内部から語られ、立ち現れてしかるべき論理(あるいは救済)が、「モテ」という外部の論理(あるいは救済)で語られていることと混雑していることが、このコンフリクトのそもそもの原因ではないだろうか?
そして、「論理」に対して不用意にあまりに不用意に、無自覚にあまりに無自覚に「感情」が持ち出されるにいたっては、そこにコミュニケーション・デバイドの暗い影が差しているという他はない。
だが、まずは投げないことが肝要である。
そもこちらの精神の奥底には、「裏切り」への耐性など十二分に用意されているのだ。
いまさら騒ぐようなことではない。
が、惜しい。実に惜しい。否、口惜しい。
さても、しかし、である。
私が以前に書いたこのエントリを端緒として形成された*1、ひとつの概念へ、そろそろその短い寿命の潰える時を宣告しなければならない時期なのではないかと思うのである。
そう、そろそろ「スクールカースト」なる言葉には、ご退場願わねばならない。
確かに、私は上記リンク先記事にてこう言った。
ここで少し、小学生のあの残酷な実態を思い出していただきたい。
かのクラスの中のヒエラルキーで、上位に位置していたのは一体どのような子供だっただろうか。
それは、明らかにカッコイイ/美人な子、または運動のできる子ではなかっただろうか?そして、彼らを中心してコミュニティ=コミュニケーション可能なグループが形成されてはいなかっただろうか?
そして、おそらくこの記述に自らの体験を重ねて、「スクールカースト」なる概念が編み出されたのであろう。
それは、一見して、かの悲惨な実態を実にスマートに表現する言葉であり、実に使いやすい、わかりやすいものであった。
そのようなもの「では」あった。
だが、よく効く薬とは、それすなわち劇薬である。
少々毒が回り始めた今こそ、その解毒を図らねばなるまい。
そう、すでに事態は「スクールカースト」なる言葉が、本来、告発のベクトルを以って編まれたはずのその言葉が、その差別の構造そのものを「現実肯定」する機能を持ち始めているのである。
もはやそれは、「思考停止」の域に達し始めているといっても過言ではない。
「俺はAクラスだった云々」「オレはCクラス云々」「スクールカーストで言えば云々」
もはやそこには、その語本来の目的とはかけ離れた精神がにじみ出ている。
つまり、「スクールカースト」の語が使われれば使われるほど、その現状が断固として補強されていっているのだ。
端的に言えば、「スクールカースト」という言葉によって、「階層の固定化」が推し進められているのである。
AクラスはAクラス、CクラスはCクラスといったような。
そもそも私の書いた記事では、「その後の可能性」に向けて論を展開させ、極力「階層性」=ヒエラルキーの解体のベクトルを含ませていたつもりだった。
それがどうだろう。
この「わかりやすい言葉」となってしまった今、「スクールカースト」は、生き生きとして差別の構造を再生産し、あまつさえ学校という異常な空間の時限的現象であったはずのものを、もはや生涯逃れられない暗黒の鎖にまでに育て上げ、人々の心を絡め捕ろうとしている。
もはや、これ以上黙っているわけにはいかない。
いや、より直接的に、はてな市民の一員として、義務として、そのキーワードを削除するべき時期に来ているのかもしれない。
この語が辞書にでも載り、ブログの存在などカケラも知らないような人々の間にまで広がる前に、致命的なアウトブレイクが引き起こされる前に、最終的な解決方法を取るべきであるのかもしれない。
時は既に遅きに過ぎたのかもしれない……が、それでも止められる範囲で止めるべきだ。
*1:と勝手に思っているのだが
言ってはいけない!Masao兄さん!!
なぜ「他の趣味や会話術」が「アニメやゲーム」に優越するのか?
お答えします。
「なぜか世間ではそういう評価になっているから」です。そこに理由などいりません。
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/11/post_823f.html
なっなにをいうだー!
ダメだ……それだけはダメだ……
それを言っただけで非モテアンテナ(よく寝癖に間違えられる)*1が、ビンビン反応してしまう!
その「なぜ」を解体することが、俺達に残された最後の希望なんだ!!*2