「ネタならいいがベタはダメだ」という者に聞かせたい言葉

希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜 - [lelele]仲正昌樹さんからのコメント
http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20071004/1191470579

>自分と異なる意見を持つ人間のイデオロギー的背景を勘ぐって、「あいつは○○主義者だから、あいつの一見まともらしい主張の裏には……」式の“ラディカルな批判”は、何も生み出しません。

解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点 | 視点・論点 「シリーズ戦後 『若者のナショナリズム』」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4319.html

>信じているふりをするということは、本気に信じている他者の存在を前提にすることであり、その意味では、その信じている他者の世界の中に身を置くことなのです。
>本気で信じている他者を前提にして行動しているとすれば、客観的には信じているに等しいのです。


いわゆる「非モテ」に愛想尽かしたのは、あまりにもこういう手合いが多すぎて馬鹿馬鹿しくなったから。
「大勢の人間と楽しくやりたいだけ」という一方で、「でも右だの左だの色のついた連中はどうしようもないから切り捨てないとダメだ」とかいう風に。


「俺は普通だ」「俺は中立だ」「俺こそが○×階層を代表する典型的な存在だ」という者を含めて、
人間という存在が政治性から切り離して存在し得ないことを理解しない、そのことに対して、言葉としては変だが「積極的に無自覚でいようとする」態度が目に付きすぎて、ホント、それこそどうしようもないなと感じたから。


そういう人間の厄介な点は、それについての批判に対する「啓蒙アレルギー」にだけは敏感だという点。
それこそ冒頭の言葉のように「そういう態度は何も生み出さない」といったところで、
「なんだキサマは!俺をオルグするつもりかこのアカめ!」といった風に。


そういう態度こそがまさに政治的な立場の明々白々な表明であり、
自分自身に対する着色作用であるということは否定し得ない事実であるはずなのだが、
自分と違う色を否定することが自分の無色さを証明することであるかのように頑なに信じ込むことで自己正当化を続け、
そして、その「正しい意見」を皆が認めなければならない、皆に認めさせなければならない、言論プロレスに打ち勝って勝利したものの意見だけが観客からの歓声を受けるに足る価値があるのだ……云々


それこそもうそういう時代じゃないだろと。
今の大学生なんかはもう、そうしたネタ的政治性にすら関与していないそうですしね。


断っておきますが、色のついた存在だから人間なのです。
色のない人間、無色透明無味無臭の人間なんていやしません。


そう、たとえ沈黙していたとしても。





<そこはかとない関連>


深く考えないで捨てるように書く - 人間関係の非対称性
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20071005/1191553213


novtan別館 - 別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20071005/p1