予備校時代の友人とウォールストリート

その日は横浜で予備校時代の友人とウォールストリートを観た。
みなとみらい高島町の映画館で観た。始まるまで時間があったので、
横浜港のみなとみらいまで散歩しながら、食べるものを探したりして時間を潰した。
天気はとても晴れていて気持ちが良かった。

今回のウォールストリートは前作には及ばないが、そこそこ楽しめた。
NYマンハッタンの情景や、コンドミニアム生活様式、金融経済の現場など、
自分とは違う国の別世界、その洗練された鮮明な描写にものすごく惹かれた。
前作は、80年代の時代の繁栄を映していて、今見ても楽しめると思う。

映画を観た後は、コーヒー屋でお茶を飲んで少し話した。
自分たちそれぞれの将来のこと、興味や趣味の話、遊びや恋愛の話について。
その後別れて、友人はまた新宿へ遊びに行った。やれやれ忙しい奴だと思った。
彼を見ていると、今を生きることを楽しむような生き方をしていて本当に羨ましく感じる。
僕は、将来や未来のことを考えたり行動をして、今を楽しむ感覚、現在の自分を無くしてしまった。
それだけど、たとえ生き方や価値観は違っても、こうやってたまにあって遊んだり話したりできる。
いい友人を持てて良かった。

友人との再会

久しぶりに友人の一人と会った。およそ一年ぶりの再会だった。その人は、自分で目標を定めて、その道を進み続けて、途中で苦難や失敗もあったけれど、一山超えてものすごく逞しく大きくなっていた。こうやって自分で自分を乗り越えてゴールを目指す人間は本当に尊敬する。先に行かれてしまった感は否めないが、こういう友人を持ててすごく幸せだと思うことがある。僕個人としては、苦労や失敗をすることが重要とは思わないが、自分の進んだ道を全うする姿勢に対してものすごく尊敬する。楽観も悲観もすること無く、自分は自分の道を行くだけだが、こういう関係はものすごく刺激になるし、自分も頑張らならなければならないと自分を鼓舞できる。
それぞれ進む道は違うけれど、お互いに意志や価値観を尊重できる関係は素晴らしいと思う。僕はあまり友人関係は華やかな方ではないし、つまらない人間と付き合うぐらいだったら、一人でいるほうがずっと好きなタイプだ。それに、誰かを友人親友云々だと言及していて、肝心なその相手が自分のことを友だちと思ってくれていなかったら、虚しいし悲しいので泣いてしまう。
その人とは、おもにお互いの自分の価値観や考え方について話すことが多い。自分は哲学や形而上学など正解のない不毛な議論が好きで、相手はどちらかというと合理的で経済学的な考え方をするタイプなので、相手には申し訳ないと思いつつも付き合ってくれてしまう。その日、その友人は自分の決断の重要性について強く述べていて印象に残った。自分で決めたことを自分で達成するということは、大切であるということは誰しもが思うところであるが、実際にそれを実行したり行動に移すとなると困難が伴う。いくらでも自分に言い訳ができるし、怠けることができるからだ。これは自分にも当てはまることだと日々痛感しているところで、自分が独自の道を行くからには、自分が自分をマネージメント(自己管理)することがとても重要になる。その人は、自分の決断の大切さや、それに伴う努力の継続が、何らかの勝負や試練における最終局面で運(偶然による成功要因)を手にできると言っていた。彼と話していて、そのようなことについて改めて教えられた気がする。
また、彼はそもそも自分が進む道を決めるとき、どうやって決めたかと尋ねたところ、日々の行動の積み重ねが道を作っていったと話していた。たった20数年間の人生における過去の経験から考えて探りだして将来への道を切り開くことも重要ではあるが、その道に入ると決めた時やその後に、例え迷ったり抜け出したくなっても、その道を確実に歩むことが、道標になったという。
彼はまだまだ最終目標地点に向けて努力をしている途中ではあるが、第一関門という壁突破したことを祝福して、その姿勢を自分も見習いたいと思う。

外側の世界

海外に行きたい。外の世界をこの目で見てみたい。世界の国々にはいろいろな世界が広がっているはずだ。今の自分の若い時代は、もう二度と帰ってこない。このまま、もしかしたら一生死ぬまで日本という小さくて狭い世界に居続けて良いのだろうか。
世界はいま本当に激動の時代を迎えようとしている。海の向こう側では、何十億という人々が豊かな経済を求めて爆発的に増えている。グローバリゼーションによって、世界はフラット化している。このままでは、日本は沈みゆく老大国だ。沈没していく豪華客船にいつまでも乗っているよりは、例え自分一人でもボートに乗って漕ぎ出したい。一緒に心中するのは御免だ。
これからの日本は、国としてではなく、個人として独立して生きて行くべきだと思う。これまでのように国としての日本が世界地図にあるのではなく、個として独立した日本人が世界で戦っていかなくてはいけない。現在も既に、クリエイティブな創作家やスポーツ選手たちは、日本という内側の世界を出て、海外の世界中の国々で活躍の場を求めて活動している。現代の開かれた時代において、彼らのように国境を超えた分野では、日本一国のトップではなく、全世界のトップを目指すことは、至極当然の選択かもしれない。
「現状維持は、衰退の始まり」という言葉を聞いたことがある。当初この言葉の意味がよくわからからず、現状維持という怠けた状態が自発的な衰退の原因という意味と考えていた。本当の意味は、競争原理の中にある。激しい競争社会において、現状維持に甘んじていれば、ライバルや競合者に追いつき追い越され、”相対的に”負けてしまって終わってしまうのだということに気付いた。競争社会を嫌う人間も多いが、(かろうじて)今も豊かな日本人の生活は、これまで国際貿易の比較優位によって築きあげた富の上に成り立った。これが、社会の一つの現実だと考えざるをえない。これも有名な言葉だが、「グローバリゼーションは、選択ではなく現実である」。

再会

今日は、久しぶりに中学高校の同級生と横浜で再会しました。変わっていなくてびっくりした!でも、お酒を交えて話していて、みんなそれぞれがそれぞれの道を歩み始めているのだと感じました。同じ境遇や環境で生まれ育っても、その後、別々の人生を進んでいくと、それぞれが違った道を歩み始めている。お互いに比べる必要もないし、差異も気にしないはずだけど、自分も自分の道をしっかり歩もうと改めて考えた次第です。
しかし、どうして人間は、比べる必要もないのについつい比較してしまうのだろうかと疑問に思う。一人ひとり違う人間なのに、どうして比べあう必要があるのか。しかも、その比較基準は、収入だったり学歴地位肩書きだったり、目に見えやすい表面的な社会的要素だったりする。くだらないけどそれが現実である。
世の中は競争社会がひとつの現実。自分自身も他人に負けたくないという自負心や競争意識は持っているつもりだけど、一方で誰か他の人間を見たときに、上で述べたような常識的とされている社会のモノサシで人間を判断するような人間にはなりたくないと思う。そんなもので人間について考えられると思ったら大間違いだと思う。
いかにして自分独自の価値観に基づいて能力価値を向上させて、社会に対してそれを提示できるかが、自分の20代の勝負だと考えている。

2011

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
今年は大学を卒業して、自分の道を模索するべくこれから様々なことに挑戦して参りたいと考えています。おおまかな地図と目標地点は、ぼんやりですが描けているので、地道に少しずつ前進していく所存であります。自分の方向性を定めて、外側の世界を見てまわっていきたい、と。
もう一点は、人としてしっかり地に足をつけていこうと思う。精神的にも経済的にも自立・独立していかなければいかん。福沢諭吉が学問のすゝめの中で独立自尊を説いたように、個人の自主独立こそが大切だと思う。人に優しくすることはもちろん大切だけど、その前提として自分がまず強くならないといけないということを、ここ数年で実感しました。
以上、今年の抱負について述べましたが、走り書きなので、うまくまとまっていない気がします。これからいろいろやりたいことがたくさんあるので、おもしろおかしく生きていこうと思います。

雑念

一人になってみて初めて自分の存在の小ささがわかってきた気がする。今まで、ぼーっと生きてきた自分は、ただ周囲の人間がいる環境が当たり前だった。自分の半径数メートルの範囲が、世界の大きさだと勘違いしていた。今でも大してわからないが、わかっていなかったということはわかりつつある。自分は自分の世界では主人公であるが、現実社会では一個の小さな存在に過ぎない。総体としての部分にしか過ぎない。共時的な平面の世界においてもそうだし、その時間的な流れにおいても。今までうすうす感じてきたことを、身を持って体感している。
だからこそ人間は、自分が独自の人間だと主張したい生き物かもしれない。論理的な飛躍かもしれないが、雑多で画一的な大多数の人間たちから抜けだそうと、差別化しようとして、創作活動に希望を見出す人達がいるのかもしれない。それはアートだったり創作活動だったり、何らかの手段で自分の存在を表現する。自分が固有性の存在を主張したいという思いによって。自分は、全く芸術的なセンスも表現方法も持っていないが、こうして文章を書くことで自分を含めた誰かに伝えることは少なくともできる。単に文章を書いていると思考が整理されて落ち着くという動機だけど。このままずっと書き続けていけたらと思う。

雑記

恵まれた環境で生きてきたはずなのに、何もできない自分の無力さに悲しくなる。このやろー!明日から気合入れて生きる!今まで、この国に生まれたこと、両親に良い教育を受けさせてもらえたこと、いろんなことに感謝しなくてはいけないと感じる。その反面、自分の存在の小ささや力の無さについて絶望してしまうような気分になることもある。世の中の社会は、個人の力ではどうすることもできない大きい流れで動いているのだと最近ようやくわかるようになってきた。大小なり、どのような権力を持った者でも、時代の趨勢や流れには敵わない。栄える者は滅び、新しいものが生まれ大きくなっていく。世界は、その循環にある。
最近、人々の出会いについて考える。ある人との出会いは、「運命」という言葉や、神の悪戯・偶然の産物だとか、そういう表現をする。特に友人や恋人などの場合は。でも、これは運命や偶然ではないのではないかと思う。実は全て必然で、起こるべくして起こったものだ。明確な根拠では説明が難しいけれど、過去の人との出会いについて振り返り考えてみると、どれも必然的に出会うべくして出会った人たちがたくさんいる。つまり、人間の出会いは、自分と何らかの要素で似ている、近い性質の人たち同士と出会う。人の世は、そういうものなのかなと思う。