『ラースとその彼女』を観ました

クレイグ・ギレスピー監督の『ラースとその彼女』を観ました〜。

うーん、かなりのネガティブ感想です。一言、好きじゃないです。超つまんねえ。私の最低映画にランキングしそうです。

「ホウキを相手にプロレスできる」と豪語するのはリック・フレアーだったかカール・ゴッチだったかあやふやですが、その神話を踏まえて、現在のとあるプロレス団体ではダッチワイフがレスラーにもなっており、実際にダッチワイフとの名勝負も行われています。ホウキやダッチワイフを相手にプロレスしてお客を沸かせることができるというのは、レスラーにとっても大変名誉なことであり、レスラー自身に実力があることの一つのメタファーとして「ホウキを相手に〜」という言葉はプロレス界に引き継がれております。

この映画は、知ってか知らずか、ただそれをやっちゃっただけのように思えます。制作陣だったり役者だったりの、彼らの超えるべき壁を克服しようと頑張って、ほら俺たちこれだけできたんだぜというのを見せつけられただけ、のようにしか思えません。そりゃあライアン・ゴズリングは上手でしょう。他の役者も文句ない。しかし、ギミック、仕掛けとしては自分がよく知っているものなので、だったらラブドールを持ち込むんじゃなくてホウキを持ち込んでみろよ、ホウキを「その彼女」としてやってみろや、と私は言いたくなりました。そんなシュールな絵を誰も望まないとな、だったらラブドールを添えるのはシュールではないのかえ?と毒づきたい気持ちです。

インターネットで出会った彼女はラブドールだった、という設定がまずひとつある、これはいいでしょう、大変オモシロそうです。どのような話に転ぶかワクワクもします。しかし、田舎のコミュニティ全体で、「実在」するそのラブドールに懇切丁寧に付き合ってあげた、たったそれだけで、人の繋がりやお互いを思いやる気持ちを云々するほどの話として納得できるでしょうか。私は全然できないと思います。ただ単に、制作陣と出演者全員が「ホウキ相手にプロレスしたかった」だけのように感じます。自己満足すら透けて見えてきます。大前提としてあるひとつの設定から、最後までまったくはみ出せていない、これでは笑いなど起こりません。設定を根底から揺るがす何かが必要だったと思います。

ラブドールを周りのみんなが人間だということにしましょう、ここまではいいんです。そうした場合に、ラブドールは特別な存在になる、とは作品中でも語られていましたが、コミュニティや周りの人々の鏡になるんですね。だったら私のような観客も説得しなけりゃならんでしょう。誰も彼もが腫れ物に触るように主人公ラースと付き合うんじゃなくて、兄貴でも会社の同僚でも、一人二人は「ただの人形じゃねえかバカじゃねえの」「そんなもん人形やんけ」とあっさり言ってしまう「邪悪な」人の存在は必須だろうと思うのです。兄貴役のポール・シュナイダーならできたかもしれません。あるいは医師や、救急車でラブドールを運ぶ隊員もそうなる可能性はありました。そこまでのツッコミ役が、ラースと共にいることで認めるようになって、初めて納得がいくし、その上でラースの心理の中での、何かこう、大きなドンデン返しがないことには、お話としては退屈極まりないものになってしまいます。

どこを切っても良い人善良な人だらけ、みんな君のことを考えているんだよアッタカイね、だとかもう噴飯モノ。女子ウケしそうな音楽のトーンも、雪の降る田舎の、信仰に篤そうなコミュニティという設定も、嫌いでしたねえ〜もう見てらんねえ、と何度も思いました。ジャド・アパトーでもアダム・サンドラーでも、「ホンモノの」コメディ作品に携わる人たちなら、本作のごとき構想で満足できる人は一人もいないだろうと思いますし、そう願いたいところです。

その上で、ライアン・ゴズリングはよく演じていました。『ラブ・アゲイン』のナンパ師とは対極といってよい役柄をやれちゃうってすごいですね、憧れます。