鳥の鳴き声に囲まれた我が家

久しぶりにブログを書きます。
いま朝6時半、雨も一休みしています。庭のベランダに出て、パソコンでブログを書いています。
我が家の前は畑、その50メートル先には入間川、その向こうに、夏の緑に変わった飯能丘陵が180度連なっています。
 鳥の泣き声が絶え間なく響きわたっています。ウグイスの「ほっほけきょこ」、スズメの「ちゅんちゅん」、キジの「けーんけーん」、カラスの「かーかー」、ヒヨの「ギャーギャー」、まさに鳥の声の曼荼羅です。
 ウグイスの声は、なんと美しく、しかも響きわたることか。「ほっほけきょこ、けきょけきょ」そして最後に「ちょっきん、ちょっきん」。最後の鳴き声を、先日、妻は「しゃっきん、しゃっきん」と鳴きているよ、といって二人で笑いました。
 庭の真ん中に餌場を作って鳥の餌を毎日おいておきます。いまも2羽のスズメがきて啄ばんでいます。以前はベランダに私がいると、決して食べにきませんでした。慣れるのですね。なにかスズメと親しくなったようで嬉しくなりました。そうそう、40歳のとき一年間、ドイツのハンブルグで過ごしたのですが、カヒェでコーヒーを飲んでいるときに、なんとスズメが私の横に来て、私の手から直接、お菓子を食べたのです。その土地の長い風習が鳥たちの気持ちをも変えるのですね。
 我が家の餌場に時よりハトも来ます。ハトは本当にやさしい鳥ですね。他の鳥と争うことはありません。静かにスズメと一緒に食べています。ただ妻は、ハトのあの「ぼーぼー」という鳴く声が嫌いと言います。本当に「一人一宇宙」です。好き嫌いも、一人ひとりの心の中で加工されてしまうのです。
 喧嘩ぱやいのはヒヨです。なん羽か来たら、お互いに餌をめぐって争っています。でも人間ほど争いません。人間は戦争でお互いに殺しあってしまうのですから。
 我が家の周りにいるノラネコで争うのが好きなネコが一匹います。「ニキジ」です。十日まえに、そのネコに我が家の「和歌」が右後ろの足を噛まれ、やっとの思いで夜、家にたどり着き、それいらいまともに歩けなくなくっています。一番大変なのは、飛び上がるジャンプができないことです。
 最初の一日は、妻のベットの上で、眠っていました。自然治癒力に任せているのでしょうか。連休明けに動物病院に連れて行って、診てもらい、薬をもらって飲ませてきましたので、だいぶ元気になりました。
 どの生物の世界でも、いわゆる「いじわる」がいるのですね。いじわるネコの名前は「ニキジ」です。顔も悪い。心のありようが顔の表情に出てくるのですね。人間も同じですね。
 「ニキジ」は「キジに似ている」という意味です。その「キジ」は、本当に人懐っこく、いつも私の足元につきまとってきます。日に三度も食べにくるのですが、可愛いので、ついつい「美味しいごはん」(カリカリではなく、少し高めの餌)を与えてしまいます。人間それぞれ、ネコもそれぞれです。
 
 雨も止んで、陽がさしてきました。丘陵の緑が一斉にその輝きを増しました。
  
   太陽さん、ありがとう

 

生かされて生きている

私は毎朝,ベットで目覚めてすぐに手を合わせて「今日も目覚めることができ、ありがとうございます」と感謝します。本当に無事に目覚めたことは、ありがたいことです。身体のなかの脳一つとっても、脳のなかの血管が詰まることもなく、破れることもなく、今朝も脳は正常に働いてくれているからです。
 本当に私たちは「生きている」のではなくて「生かされている」のです。この事実に気づけば気づくほど、「自分は」「私は」という思いは薄らいできます。
 もちろん「生きている」と考えることも大切です。この意識がなければ、いろいろの困難に対処できません。でも「生かされて生きている」という事実に気づくと、困難を乗り切れる勇気が出てくるのではないでしょうか。
 私たちはなかなか「事実」に気づくことがありません。いつも、よいとかわるいとかいう「価値」ばかりを考えて右往左往して生きています。価値の前に事実が何かを考えてみること、「自分はいかに生きるか」と考える前に「自分とは何か」と考えてみることが大切です。
「なに、なに、なに」と子供の心に戻って追究する毎日です。

新刊書の紹介

このたび、『唯識の思想』が講談社学術文庫として刊行されました。唯識思想の入門書としては他に『「唯識」という生き方』(大法輪閣刊)がありますが、この中にはほとんど唯識的な専門用語が使用されていません。
 これに対して『唯識の思想』の中には、以前にNHKの宗教の時間で唯識を講じた際のテキストを一冊の本にまとめたものですので、適宜、用語が出ており、それが解説されています。
 唯識思想は“非常識”の連続です。「ただ心だけが存在し外界にはものは存在しない」とか「自分というのは言葉の響きがあるだけである」とかいう、いわゆる“非常識”を主張しているからです。
 でも、いわゆる“常識”にしたがって生きるところに迷いと苦しみとが生じると私は確信しています。
 <唯識>の教理したがって“非常識”に生きてみましょう。すると知らず知らずのうちに、心が深層から変革されて、爽快に生きることができるようなります。
 長い長い夢の世界から覚めて爽やかな朝を迎えることができます。
 どうか唯識思想を学び実践してください。

生きていながら死を実現する


二十数年まえに不思議なご縁で知り合った山口博永師から先日、以下のようなメールをいただきました。



臘八と涅槃接心で

唯識観を工夫しました

その結果です。


今回の接心は、死を見据えた坐であった為か…、素晴らしい気付きを得ました。

生きていながら死を実現すればするほどに本物に出会います。

 … … …

 外境(界)から名が消え失せて、言語が 止み 

そこに存在(有るべきようにてある)を 観る。

存在には温もり、感応があって、その印象は、

“ 我が友!兄弟! ”

と叫びたくなるほどの親近感から、一体感を覚え、

その有り様(尊厳性)に涙し微笑む。

更に深く(内在)禅定に入ると、

母(最高理想、愛そのもの)に安らぎ、歓び、同時に道心が、母心と同化して

 “転識得智”し、

菩提心 《己れ未だ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり》の命がほとばしる。

無分別智とは

尊厳(智慧)と

慈悲そのものであり、

無条件、無制限の歓びであります。

そこでは物事を確かめる手段(自我)は消え伏せ

 “ 唯識 ”となり

全てに 

 疼き渡り、

いとおしい

これが無分別智の

正体であり、いきいきとした作用!であり、

転識得智した働き…

唯識の世界観であるようです。


  臘八接心で 

一指頭の地獄行きを覚え

  《大死一番》


  涅槃接心で

温(ゆたか)な歓喜(無分別智)に遊ぶ。

  《大活現成》

一即一切 一切即一

博 永  九 拝


お若いときから修行三昧の生き方をされた方の深層心からの叫びのような歌です。
特に、
 「生きていながら死を実現すればするほどに本物に出会います。」
に私は感動しました。


私はいま、昨年の五月から『大法輪』で「唯識実践講座」と題して連載しています。
今年の一月号から山口博永師と私との対談を五回にわたって掲載していますので、読んでいただきたく思います。


 







一日のはじまり

今日も一日がはじまりました。私のまずやることは、居間の雨戸を、続いて道場の雨戸を開け、待ち構えている猫の「きじ」と「まいける」(妻がつけた名前)に、そして、スズメの餌を地面にまき、梅の木にミカンを掛けることです。
いま終わりましたが、もう、鳥どりが来て食べ始めました。ヒヨは数羽きて喧嘩をしながら食べています。スズメは非常に用心深くて、数十羽で梅の木をすこしづつ下に降りて、大丈夫とみはからって、一斉に地面におりて餌を拾います。
鳥の種類によってこのように性格がちがいます。「性格」といいましたが、これは人間についてだけ言える言葉でしょうか。
とにかく生き物たちの行為は種によって相違します。穏やかの鳥もいるかと思えば、激しく争う鳥もいます。
ところで人間、ホモサピエンスという種の行為は、もう多岐にわたります。その愚かな行為は、自分と他人とを分けて対立することです。その対立の中で最高度の愚行は「戦争」です。
人間はなぜそうなのでしょうか。それは人間が執拗な自我執着心に染まった複雑な心を持ち、言葉を自由に駆使できるからです。
表層で働く執拗な自我執着心を無くすことは難しい。でも大波小波が起滅する心の「深い層」に沈潜してみましょう。心という海の真底にまで潜ってみましょう。すると、そこには自我意識もなく言葉もありません。あるのは、唯だ、
     「一つ」
です。
 この「一つ」に気づくための方便が、なりきり、なりきっていくことです。becoming one with です。
それは難しいことではありません。たとえば、吐く息、吸う息になりきっていくことです。随息観を行うことです。
私も「今日一日、なるべく、なりきり、なりきって生きていこう」と心に誓いました。

「いのち」溢れる庭

いま、朝の10時、庭に眼をやると、二十羽ほどのスズメと二羽のハトが地面にまいた鳥の餌をついばんでいます。庭の正面の梅の枝に掛けたリンゴをヒヨが長いくちばしでつついています。時折ムクがきますが、ムクは大食漢でリンゴやミカンの皮までも食べつくしてしまいます。
我が家の庭は、鳥々の「いのち」、花の「いのち」、木々の「いのち」、総じて生き物の「いのち」で溢れています。
それも見ているこの私も「いのち」だと気づきました。だから鳥とも、花とも、木々とも、私はつながっているのだと気づきました。
  「ああ、自然は素晴らしい」
と叫びたくなりました。